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石巻市内を流れる旧北上川に浮かぶ中州は、中瀬公園になっている。その一角に建つ旧石巻ハリストス正教会教会堂(写真上)は、明治18年(1880)に建造され、現存する木造教会としては日本最古。この中州をはさんで東内海橋と西内海橋が両岸を結んでいる。その橋と橋の中央に岡田劇場があり、いまも映画が上映されている。写真下は、慶長18年(1613)、伊達政宗によって建造されたサン・ファン・バウティスタ号。日本最古の木造帆船で、初めて太平洋を2往復するという偉業を遂げた。平成5年、出帆380年を記念して復元され、石巻市渡波にオープンしたサン・ファン・バウティスタ・パークにミュージアムとともに展示されている。 |
| 東洋一の港町は、あの伊達政宗によってつくられた |
| 人口約十二万人。宮城県下第二の都市・石巻は、東洋一の漁港を持つ日本有数の港町である。 森進一の『港町ブルース』だと、宮古・釜石・気仙沼となって、石巻の名は出てこないが、その気仙沼や塩釜と並んで宮城県の三大漁港の一つであることはよく知られている。 石巻は、古くは伊寺水門とよばれていた小さな漁村集落でしかなかったが、奥州藤原氏を倒して、東北地方の掌握に成功した源頼朝が、葛西清重を奥州の総奉行に任じると、清重は日和山に館を設けて、約四百年間、戦国期にいたるまで、その城下町として栄えてきた。 その石巻城跡はいま日和山公園となり、頂上には鹿島御児神社がある。この境内が、もと石巻城の本丸であった。 標高わずか五十メートル余の小さな丘だが、長浜・雲雀野・野蒜海岸はもとより、牡鹿半島や松島一帯、相馬・蔵王・栗駒方面をも遠望することができる。 伊達政宗(一五六七〜一六三六)は、仙台の青葉城よりもここに居城を設けたいと思っていたらしく、江戸幕府への願書には、日和山を第二志望地にあげていたほどである。 江戸時代に入り、その政宗が、家臣の川村重吉を起用して、北上川の改修という大工事に乗り出す。おかげで石巻港は、たちまち千石船が往来する東北屈指の港町として生まれ変わるのである。 つねに七十〜八十隻の千石船が出入りし、港付近には仙台、盛岡藩はもとより、一関、八戸の諸藩の米倉や会所が立ち並び、その繁栄ぶりは仙台をも凌ぐ勢いであったという。 また、この河川改修で新田の開発にも成功し、その米は本石米と名づけられ、一時、江戸で消費される米の三分の一が、仙台米で占められていたほどであった。 |
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| 伊達政宗の壮大な冒険ロマンの夢跡は哀しからずや |
| 伊達政宗については、映画やテレビ時代劇で何度もとりあげられているが、安土桃山・江戸初期の武将で、隻眼のため独眼竜政宗とよばれていた勇猛果敢な猛将ぐらいの知識しか、ぼくにはなかった。 しかし、これまでの一地方大名のイメージを一変させる壮挙が、この政宗の派遣した、慶長遣欧使節である。 政宗は四十九歳。家臣支倉常長は四十五歳。新イスパニア(現メキシコ)およびヨーロッパに外交使節として派遣することになったのは、大航海時代の後半にあたる慶長十八年九月十五日(一六一三年十月二十八日)のことである。 日本が本格的鎖国に向かおうとする江戸初期に、けっして安全とはいえないガレオン船(木造帆船)で太平洋と大西洋の二つの大洋を渡り、当時世界一広い領土を支配するスペイン王と、その王さえその前ではひざまずくローマ法王に拝謁したというのだから、政宗のたてた計画の壮大さには、やはり驚かされずにはいられない。 遣欧使節一行は、宣教師ルイス・ソテロを案内人として、西洋人四十名を含む総勢百八十余名。乗りこんだ帆船は、幕府の船大工・水手頭などがなんとか造りあげた和製洋式大型帆船サン・ファン・バウティスタ号(陸奥号)である。 この日本最古の木造洋式帆船は、平成五年(一九九三)、出帆三百八十周年を記念して復元され、いま石巻市渡波に当時そのままの勇姿を見ることができる。 暴風雨と闘いながら、太平洋の荒波を乗り切ったサン・ファン・バウティスタは、長さ十八間(三〇・五四メートル)、横五間半、高さ十四間一尺五寸の木造船であった。 使節団が出帆したのは仙台領月ノ浦(月浦)。牡鹿半島の西岸、荻浜と桃浦の間にある小さな入江である。 月浦の入江には、日本人として初めて太平洋の横断に成功した出帆記念として、日本海海戦で勇名を轟かせた東郷平八郎(一八四七〜一九三四)の揮毫による解纜(出帆)記念碑が建っている。 また高台には、美しい月浦の海岸線がながめられる展望台、航路を記した記念碑、太平洋をじっともの思うように見据えた常長の像も建っている。 常長一行は、元和四年(一六一八)にようやく帰路につき、メキシコをへてマニラに至るが、おりからますます厳しくなっていったキリシタン禁制のためになかなか入国ができず、結局、常長一人だけが、元和六年(一六二〇)にひっそり帰着することになる。 出発から七年の歳月が流れていた。 考えてみれば、出発の年は幕府はすでにキリシタン禁令を出しており、キリシタン大名の高山右近が国外追放処分になったのも、慶長十九年(一六一四)のことだったのである。 やっとのこと帰国した常長であったが、禁令下のために隠棲を余儀なくされ、二年後の一六二二年、不遇のうちにその生涯を終えてしまう。 月浦の湾内は、湾外に横たわる小鯛島と、背後にそびえる袴ヶ岳によって風がさえぎられ、コバルトブルーに輝く海は波一つない静けさだ。 それが、まるで常長の無念の心の内をいまもうつしているようで、少し哀しく見えてくる。 ここが、あの徳川家康もかなわなかった政宗の壮大な計画の出発点だったのだ、という冒険とロマンへの感激と、帰国後死に至る動静もはっきりしない常長の、その後への哀悼の気持ちが、さっきからぼくの心を複雑に揺らせている。 |
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