この伊東の南側にある小さな漁師町で、私は昭和三十年代前半から少年期を過ごした。家は魚市場のすぐ横にあり、なおかつ窓を開けると眼の前は堤防と海。カニやフナムシが家の中に入ってくるなどということはごく普通で、今、想い起こすと、それはまるで「海の家」のようだった。 父は建築関係の仕事をしており、港の堤防の拡張事業などが主たる内容のようだった。町のほとんどの家は漁業にたずさわっていて、カツオの一本釣りの大型船で遠洋に出かける若者もいれば、近海の漁や磯のサザエ、アワビ、トコブシ漁で生計を立てていた。 当時はまだ、昔ながらの半農半漁で、文化的繁栄からはほど遠かった。ソ連のガガーリンが人類史上初の有人宇宙飛行に成功したとか、やれ皇太子殿下と正田美智子さまの御成婚パレードが華やかに行なわれた、などといったラジオや新聞のニュースは、どこか遠い国での出来事のようなものだった。それよりも狩野川台風の影響で漁ができなくなったり、船が高波に流されたり、浜の網小屋が壊れたりしたことのほうが、切実な問題となる環境だった。 しかし、遠洋のマグロ船やカツオ船が水揚げのため入港したり、定置網にブリの大群が入ったりすると、魚市場の競り売りの喧騒とともに、小さな漁師町は一気に活気づいた。 そんな中で、我々小僧っ子の日常の遊びといえば、港の防波堤か磯での釣りや、人家のすぐ後ろにおおいかぶさっている山々に入り、山モモやアケビなど木の実を取ったり、山芋を掘ったり、時として、豊富にあるどこかの畑のミカンなども、ちゃっかりといただいて、空腹を満たしたものだった。 ナイフの肥後守は我々の必須アイテムだった。釣り竿は、それぞれが竹藪へ入って切り取ってきた竹で作る。竹をひと冬乾燥させてから浜にもってゆき、流木で火をおこし、大人の漁師の見よう見まねで焼き入れをし、曲がりなどをなおして使用した。 釣り鉤は、町の小さな釣り道具屋で買ったが、糸は大人が海端に捨てていった切れっ端でまにあわせた。エサは磯の岩や石をはぐると、いくらでもいる小さなカニを獲り、それを針にさした。糸は30cmほどの長さにして、磯の岩場の波間に立ち、竿先を水中の岩間にさし込むと、やがてブルブルという魚信とともにカサゴなどが面白いように釣れた。 夏休みになると、それこそ朝から晩まで海一色の生活が始まる。港の横の網干し場での朝のラジオ体操が終わり、朝めしがすんだ頃になると必ず、いつもの友達3人が肩にモリをかついで迎えにくる。 母に昨晩の夕めしの残りのオコゲでおむすびを4、5個作ってもらっている間に、竹竿に乾かしてある赤フンドシと手ぬぐいを取ってくる。それを新聞紙でくるんだおむすびと一緒に風呂敷にくるくるとまるめて、結び目をモリに通して肩にかつぐ。水中メガネは頭にかぶりつけて準備OK。 魚市場のすぐ横の我が家から、海岸沿いの道路をいつもの磯に向かって歩く。北向きの斜面に密集して立っている漁師の集落を過ぎて、網干し場や乾物干し場の前を通り過ぎると人家はなくなり、前方に水平線まで見渡せる海が視界にとび込んでくる。砂利の一本道をしばらくゆき、海側の松林の根方についている階段状の細い道を、松の根に足を取られないように注意しながら降りてゆくと、いつもの岩場のところに出るのだ。 |

| 海にもぐる前に、それぞれの持ち物を一カ所に置いて、焚火用の流木を拾い集める。流木はいたるところにあった。おむすびの新聞紙を千切ってマッチで火をつけ、焚火を起こしてから裸になり、赤フンドシを体につけた。 澄んだ朝の海はヒヤリとして少し冷たい。潮に流されてバラバラにならぬように、それぞれが見渡せる距離を保ちながら、水中の獲物を探す。深いところで5mほどだろうか。今と違って、魚や貝は簡単に見つかり、獲ることができた。岩場と砂地の境目にはタコやカワハギが、岩の間にはカサゴなどがいる。モリの端についているゴムを引き、魚の頭を狙って突く。タコ以外は動きが早いので、突くタイミングをつかむのがなかなか難しい。 体が冷えてくると海からあがる。あがりしなに、いくらでもいるサザエやシッタカを獲って焚火にくべて焼いて食べる。これは、うまい。モリで突いた魚は、岩場の陽影の潮だまりに魚さしのヒモをエラに通して沈めておき、家に持って帰るのだ。太陽が頭上にかかる頃、焚火を囲んで昼めしのおむすびに喰らいつく。水は山側の岩場から湧き出てくる水を、両手を岩につきながら口をつけて飲んだ。何を食べても飲んでも、うまいのだ……。
中学生になると、漁師の友達のジィちゃんのてんま船を借りて、港から3kmほどの沖にある島に渡った。 中学生の体でてんま船の櫓をこぐのは体力が必要だったが、皆で代わるがわるこいで何とか島に渡った。この島は磯のサザエやアワビ漁で生計をたてている漁師達の仕事場の島だった。父親と一緒になって漁の手助けをしている同級生の姿を見かけることも時々あった。 ここの磯ではイシダイを狙って獲るのだ。 根魚のイシダイは、潮まわりさえ良ければ必ずその姿を見ることができた。海中を泳ぎ、移動するイシダイをモリで突くことは不可能に近い。しかし、岩の下のすき間、いわゆる根に入ってしまえばしめたものだ。モリのゴムを目いっぱいひいてイシダイの入った根をめがけて一気に7mほどもぐる。根の中を見渡し、姿を発見したと同時にモリを打ち込むのだ……。 2kgくらいの大物を獲ることも何度かあった。磯にもぐってイシダイを突き、獲ることは、今日になって考えてみると究極だったのではないか、と想えてくるのだ。 夜は、家の前の堤防の岩場でイセエビの夜釣りをした。 今日、日本中のほとんどの堤防のまわりはコンクリートの波消テトラが沈めてあるが、当時は車ほどの大きさの岩が堤防を囲むように沈めてあり、その岩場のすき間に糸をたらして、イカの切り身をエサにイセエビを釣った。カマボコの板に5号くらいの釣り糸をぐるぐると10mほどまいておけば十分で、ナツメオモリの先に4本ほどの鉤をつける仕掛けだ。 しかし、イセエビの夜釣りは、そう簡単なものではなかった。ひと夏に一匹、手にすることができれば良いほうだった。 だが、8月の海を渡る夜風が心地良く、遠い沖にイカ釣りの漁火がいくつも並び、ザブリザブリと岩場を洗う波は、青白く夜光虫が輝いていた。天空には天の川が渡り、時として流れ星、臨海小村の幻想的な夏の夜は静かにふけてゆくのだった……。 今日では、港や堤防はもちろん、漁師の家々も近代的なそれに変わった。道路も整備され、叙情と郷愁に富んでいたであろう景色は一変してしまっている。ただ、てんま船をこいで渡ったあの島だけは、今も変わらぬ姿で沖にかすんで見えている。 |
| ●うちだ・すすむ 1947年、静岡県生まれ。日本大学芸術学部美術科卒業。 日本における魚のイラストレーションの第一人者。 美術出版社やグラフィック社から画集を出版。 アメリカ・モンタナ州にあるフライフィッシング博物館に、日本人で唯一の作品が所蔵されている。 平成11年、NHK BS放送で西山徹氏との九頭竜川での サクラマス名人対決が放送され話題となる。 魚を描くには、釣る!! 見る!! さわる!! が一番大切だと思っている。 東京イラストレーターズソサエティ(TIS)会員。 |
