新旧街道図会
初瀬街道(寄り道)

飛鳥路の歴史遺跡の
点と線を結んで古代ロマンの夢を追う

 いまから千三百年前、わが国に仏教が伝来した欽明天皇のときから、持統天皇が都を藤原京へ移すまでの約百年間、飛鳥は政治、文化の中心地として栄えた。大陸からわたってきた文化を基に、日本人の感覚と技術が加えられ、日本文化が初めて花開いた百年間でもあるのだ。
 ところが現在、明日香に残っているその時代の遺物は飛鳥大仏の一部を残しているだけで、宮跡や寺の跡地とたくさんの古墳と謎の石造物だけなのである。
 だから、初めて飛鳥を訪れる人は、まずは飛鳥資料館に行って予備知識を仕込んでから探訪に出かけることをおすすめしたい。予備知識があってこそ、空想とロマンが浮かぶのではないか、と思うからだ。
 最初に訪ねたのは、瓦屋根と白壁が美しい古民家が残っている飛鳥集落である。そのはずれにある飛鳥坐神社は、甘樫(甘橿)丘にあったのを、ここ鳥形山に移している。祭神は大国主命の子、事代主命で、宮司は代々飛鳥家が継ぎ、現在八十数代目。約二千六百年も続いているそうだ。
 境内に大小の陰陽石がズラリと並んでいた。二月の第一日曜日に行なわれる御田祭りは、大和の奇祭として有名で、天狗とおかめがリアルに男女和合を演じるとか。一度見たいと思いつつ、いまだ果たせないでいる。
 そして飛鳥寺は、推古天皇の時代に蘇我馬子が聖徳太子の四天王寺に対抗して、六百九年に建立した。創建時は一塔三金堂をもった日本最初の大規模寺院で、完成まで二十年かかった。四天王寺が六十年、法隆寺の四十年に比べても、蘇我氏の財力がいかに大きかったかがわかる。
 しかし、現在の飛鳥寺からは、かつての壮大さを偲ぶのはとても無理だ。それほどに規模が小さくなっている。本堂の薬師如来像(通称・飛鳥大仏)は止利仏師の作。この仏像は建久七年(一一九六)の大火で焼け、頭の上半分、左耳、右手の指三本だけが残ったが、ほかは補修した。だが「修理がヘタで痛々しい」といわれているそうだ。
 ここはまた、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が出会ったところでもある。寺の裏にある小さな五輪塔は、大化改新のときに殺された蘇我入鹿の首塚とか胴塚と伝えられている。
 伝・板蓋宮跡には発掘された井戸や石敷が整然と並ぶ。西側に飛鳥川が流れ、その向こうに甘樫丘、東側には岡寺などがある丘陵が続く。
 その間の狭い平地に、六世紀に十一の宮殿がつぎつぎとでき、飛鳥寺をはじめ壮大な寺が立ち並んでいた。聖徳太子や藤原鎌足などの古代史のスターたちが活躍したのが、飛鳥なのである。
 ここが伝承どおり板蓋宮であれば、大化改新の舞台もここであるはずである。このクーデターは大和国内だけでなく、新羅(朝鮮半島東部の国)の力が大きく働いていたという。
 石舞台は、飛鳥で一番の観光名所。蘇我馬子の墓ともいわれているが、正確なことは不明だ。もとは上円下方墳であったものが、封土がなくなり石室が露出したもの。最大の石は推定七十五トンで、この巨石をどこから運び、どのように組み立てたのか、まだ解明されていない。
 このほかにも、用途不明の石造物が点在している。飛鳥には謎の物体や伝承地、……跡とはいうけれど、まったくの不明だ。それだけ謎解きと想像が自由きままに飛びかう。
 だからこそ、かえって見るものに古代のロマンと空想の楽しみを与えてくれるのだ。

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