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徳川家康の霊廟である東照宮と二荒山、輪王寺を中心とする日光の社寺は、平成11年12月、世界遺産(文化遺産)として登録された。日本では10件目の世界遺産となった。 東照宮の境内には国宝9棟、重要文化財94棟の建造物があり、日本の古い建築様式を伝えるとともに、自然と一体となった古代以来の宗教的な景観を保っていることが評価された。 二荒山は日光の山岳信仰の中心として古くから信仰されてきた。輪王寺は8世紀に創建された寺に起源をもち、日光山の中心寺院として発展してきたのだ。東照宮の絢爛豪華さは、いつきても、何度見ても瞠目するだけである。 写真上は、江戸初期の美術の粋が結集している陽明門。 |
| 家康は死して神となり、日光は最大の聖地となった |
| 日光市。わが国有数の国際文化観光都市である。古い歴史に彩られた輪王寺や二荒山神社、「日光を見ずして結構というなかれ」といわれる人工の粋を凝らした日光東照宮がある。 日光山が開かれたのは、奈良時代末期の天平神護年間(七六五―六七)とされている。いまから約千二百三十余年も前にさかのぼることになる。開祖は勝道上人で、その後、空海や円仁の入山が伝えられ、山岳信仰の霊場、修験の道場として栄えた。 この当時は山岳宗教といい、高山を開いて霊場とすることがさかんであった。その場合、日本古来の神祗信仰に仏教が結びついて、仏が神の姿をかりて現われる―いわゆる本地垂迹説という神仏混淆の教えが行なわれた。日光と同じころ、高野山、比叡山などが相次いで開山されている。 また日光山は、開かれる以前から農業の守護神のように尊拝されていたらしい。男体山を男神、女峰山を女神、太郎山を長男とする固有信仰である。日光は古くは二荒山といい、本来は二柱の神が現われる意味といわれる。その二柱の神が、男体山と女峰山である。 実際に山の形も、男体山は凸型の山、女峰山も古くは赤薙山との連山をさし、なだらかな凹型で、この男女二神こそ日光の神であり、二荒山の神だったのである。 元和二年(一六一六)四月十七日巳刻(午前十時ごろ)、徳川家康は駿府城で七十五歳の波乱の生涯を閉じた。 死に先だち、家康は本多上野守正純、南光坊天海、金地院崇伝の三人を病床によびよせ、「死後、遺体は久能山に納め、葬礼は増上寺に申しつけ、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌が過ぎた後、日光山に小堂を建てて勧請せよ、八州の鎮守になりたい……」(『本光国師日記』)と、遺言した。 遺言どおり家康の遺体は秘密裏に久能山に運ばれ、奥社の廟に埋葬された。このときの葬儀は唯一神道の神式で行なわれた。また諸大名からの香典は一切受けつけなかったそうである。その理由は、家康の死は神に祝うものだったからである。 家康は死の瞬間から神になったのである。しかし、神に祀る方法について、天海と崇伝の間に激しい論争が行なわれる。天海は比叡山に伝わる山王一実神道によって、家康を「大権現」に祀ることを主張し、崇伝は吉田社の唯一神道による「大明神」で祀ることを主張したのである。 結局、豊臣秀吉が吉田神道によって豊国大明神に祀られながら、豊臣家が滅亡したため、明神号は不吉である、という天海の主張がとおって、家康は権現号で祀られることになった。翌元和三年二月二十一日、東照大権現の諡号が天皇より宣下された。 家康の遺言では、遺体そのものを久能山から日光山に移せとはいっていないのに、日光山へ改葬が行なわれたのは、実は天海の天台宗勢力を拡大させたいという政治的な配慮からだったらしい。 しかし、ともかく日光東照宮に、家康の遺体が埋葬され、東照大権現として祀られてからは、日光は徳川時代に、日本で最高最大の聖地となったのである。 |
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| 豪華絢爛な陽明門が別名日暮門と呼ばれる理由 |
| いまに残る東照宮の結構は、その大部分が家康を神祖とあおぐ三代将軍徳川家光が寛永十一年(一六三四)から二年の歳月を費して行なった大造替工事によって完成されたものである。 家光は自らを「二世将軍」と称して家康を崇拝していた。それだけに東照宮の規模があまりにも小さいのに不満をもっていた、というのがこの大造替・修理の表向きの理由である。しかし、どうやら諸大名の財力を消費させ、戦力を弱めさせようとした、というのが本音のようであった。 その総工費は、賦役人夫の費用を別にして金五十六万八千両、銀百貫目、米千石と記録されている。 使用木材も〆尺、すなわち、約三十センチ角、長さ三・六メートルのものを十四万七千十二本用いたといわれる。これを一本ずつ縦に並べると約五百二十キロになり、だいたい東京から京都までの距離に相当するらしい。 また社殿にはりこまれた金箔は二百四十八万九千九百枚ということで、当時の金箔は三寸二分四方であるから、これを一枚並びに敷きつめると七千八十二坪、約二万三千三百七十二平方メートルの広さになる。 この莫大な工費と労力を注ぎ込んだ工事で、元和の創建当初の規模は一変した。いまの東照宮の結構は、ほとんどこのときに完成した建物である。五重塔、陽明門、三神庫・拝殿・石之間・本殿など、諸社殿の大部分が国宝あるいは国の重要文化財に指定されている。 昭和八年(一九三三)に来日し、日本の建築文化を高く評価した『日本美の再発見』の著者であるドイツの建築家、ブルーノ・タウト(一八八〇―一九三八)は、建築の堕落だと激しくけなしていたが、桂離宮を絶賛したタウトには、この豪華絢爛が気に入らなかったのだろう。 とはいっても、やはり四百を超える彫刻がほどこされ、彩色きらびやかな陽明門は、いつ見ても圧巻である。 この陽明門は、見る者をして時のたつのを忘れさせるところから、別名“日暮門”とも呼ばれている。ぼくはこれで四回目の拝観である。 |
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