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連載 第8回 |
思春期という言葉があるならば、思秋期という言葉だってしかるべきだと辞書を引いてみたが、そんな項目はありません。こういう感覚は、かつて唐十郎氏が書いた「幻のセールスマン」という小説の書き出しにあった、「売春婦に春を売ることができるならば、男たちはどんな季節を売ることができるのかと一人のセールスマンは考えた」という文章の後遺症かもしれない。 |
私には、小樽あたりへ行って、朽ち果てそうな倉庫などを、時間のたつのを忘れて打ちながめていたりするのが好きなところがある。その建物の余命いくばくもないけしきに、やけにそそられているというわけだ。平安神宮的な派手さより、地味で寂しい古寺に気が向くのも、そんなセンスとからんでいるだろう。 “わび”だの“さび”だのというのも、どうやら男の心根が土台となっていたような気がする。茶の湯といえばいまや女性の存在ぬきには考えられないが、利休の頃へ遡れば茶室に女性の姿などとうてい想像できないのである。 「時代屋の女房」という私が書いた小説は、大井町にある古道具屋が舞台になっている。骨董品、古道具屋、古本屋を好むのも、どこかに“廃墟の観照”がからんでいて、古くなった物に馴染む感覚が強いのではなかろうか。とくに目的の書物などないのに、古本屋めぐりを愉んでいる人には、店内にただようあの独持の、古本の匂いに惹かれるセンスがあるように思える。 そして、これもまた女性よりも男に傾いた好みではなかろうか。 はたまた私は、老人とおつき合いするのが好きである。これは、祖母に育てられた後遺症ということもあるが、人生をこなし年輪をかさねて仕立あがった老人の姿、形、佇いを打ちながめているだけでうっとりするのだ。 五十、六十鼻たれ小僧……というが、そこからかなり先まで生きた老人の何ともいえぬ 姿、形、佇い。これはもう人物というよりも風景に近い魅力なのだ。そして、これもまた“廃墟の観照”と言うにふさわしい物の見方かもしれないのである。 近頃は、その“廃墟”の絵柄の中に自分自身も入っているような感じがある。いま自分だと思っているのは過去の自分であることに気づくことが、何度かあった。 たとえば「あなたは足が速いですか」「相撲が強いですか」「野球は上手ですか」などと問われると、「はい、速いです、強いです、上手です」と答えてしまう。しかし、これは正確に言うならば「速かったです、強かったです、上手だったです」ということなのだ。 自分の衰えを頭に入れずに答えているわけなのだが、それに気づいていることも不愉快ではない。そろそろ、折返し点から人生の後半にさしかかっていることに、何とはない面 白さを感じたりもしている。つまり、世の中の衰えも自分の衰えも、やわらかく受け入れる気分が湧いているのだ。老人として居直る年齢には早すぎるのだが、老人の一年生になったという感覚があって、老人の側に身をよせて考えようとする自分の傾向に、最近よく気づくのだ。 こういう状態を何と呼ぶのかと考えると、どうやら思秋期という言葉がふさわしいのではなかろうかという気がする。したがって、紅葉の秋なんぞの味わいがこれまでよりずっと身にしみるのであり、“廃墟の観照”われにありといった心持だ。 |
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1940年、東京都生まれ。慶應大学文学部哲学科卒業。出版社勤務を経て、文筆活動に入る。1982年『時代屋の女房』で第87回直木賞受賞、1997年『鎌倉のおばさん』で第25回泉鏡花文学賞受賞。主な著書に『私、プロレスの味方です』『上海ララバイ』『作家装い』『アブサン物語』『俵屋の不思議』『力道山がいた』『アブサンの置土産』など多数ある。演劇、スポーツに造詣が深く、活動のフィールドは広い。 |
