逆さメガネの好奇心 連載 第8回

思春期について

 思春期という言葉があるならば、思秋期という言葉だってしかるべきだと辞書を引いてみたが、そんな項目はありません。こういう感覚は、かつて唐十郎氏が書いた「幻のセールスマン」という小説の書き出しにあった、「売春婦に春を売ることができるならば、男たちはどんな季節を売ることができるのかと一人のセールスマンは考えた」という文章の後遺症かもしれない。
 唐十郎氏の文章はそのあと行を変え、「頃は晩夏、陽炎の下町だ」と、ぐいと読者の胸ぐらをつかんでくるのだが、私のこの一文は、ちょいとその真似をしてみただけのことで、先に何の目論みもないのだからお粗末だ。
 いやあ、しかし、あの頃の私は唐十郎病の患者といってよいくらい、妖しい魅力のトリコになっていた。その余韻が強く残っているからこそ、こんな書き出しをしているのだろう。
 それはともかく、思秋期という言葉は単なる思いつきだが、字に書いてみると、そんな表現があってもいいのではないかという気になってくる。
 
かつて、アメリカの女性作家がボクシングについて書いた本の中に、“廃墟の観照”という言葉が出てきて、興味深く頭にとどめたことがあった。
 チャンピオンと挑戦者が闘い、不動のチャンピオンと謳われた男が、挑戦者のパンチに仕止められてKOされる……こんなシーンについての分析が、“廃墟の観照”という言葉につながっていた。
 こんなシーンを目にしたとき、女性はいまチャンピオンをKOして新しい王者となった男の雄姿を、うっとりと眺めるにちがいない。しかし、ほとんどの男たちは、自らの栄光を粉々に打ち砕かれてKOされ、キャンバスに這いつくばっている男の姿に目が吸い寄せられてしまう。この感覚が“廃墟の観照”であり、男特有の物の見方に根ざしていると、女性である作者は書いていた。
 私は、自分自身をKOシーンにかさね合わせてみて、なるほどと思った。たしかに、ガッツ・ポーズを取り、リング上を飛び跳ね、コーナー・ポストに上がって両手を突き上げている新しいチャンピオンより、しばらく立ち上がれない前チャンピオンの方に、私の視線は向けられているにちがいないのだ。
 どうやら男というのは、そういう安っぽいというか単純というか、分りやすいセンチメンタルに感動する癖があり、その心根を彼女は“廃墟の観照”という言葉でとらえたのだろう。

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 ボクシングのKOシーンだけでなく、朝日より夕日に惹かれるという傾向も、どうやら男の中にはあるらしい。いま水平線に落ちてゆく夕日をじっとながめている男には、そこへ沈みゆくさまざまなけしきや自分をかさね合わせている気分があるのではなかろうか。
 私には、小樽あたりへ行って、朽ち果てそうな倉庫などを、時間のたつのを忘れて打ちながめていたりするのが好きなところがある。その建物の余命いくばくもないけしきに、やけにそそられているというわけだ。平安神宮的な派手さより、地味で寂しい古寺に気が向くのも、そんなセンスとからんでいるだろう。
 “わび”だの“さび”だのというのも、どうやら男の心根が土台となっていたような気がする。茶の湯といえばいまや女性の存在ぬきには考えられないが、利休の頃へ遡れば茶室に女性の姿などとうてい想像できないのである。
 「時代屋の女房」という私が書いた小説は、大井町にある古道具屋が舞台になっている。骨董品、古道具屋、古本屋を好むのも、どこかに“廃墟の観照”がからんでいて、古くなった物に馴染む感覚が強いのではなかろうか。とくに目的の書物などないのに、古本屋めぐりを愉んでいる人には、店内にただようあの独持の、古本の匂いに惹かれるセンスがあるように思える。
 そして、これもまた女性よりも男に傾いた好みではなかろうか。
 はたまた私は、老人とおつき合いするのが好きである。これは、祖母に育てられた後遺症ということもあるが、人生をこなし年輪をかさねて仕立あがった老人の姿、形、佇いを打ちながめているだけでうっとりするのだ。
 五十、六十鼻たれ小僧……というが、そこからかなり先まで生きた老人の何ともいえぬ 姿、形、佇い。これはもう人物というよりも風景に近い魅力なのだ。そして、これもまた“廃墟の観照”と言うにふさわしい物の見方かもしれないのである。
 近頃は、その“廃墟”の絵柄の中に自分自身も入っているような感じがある。いま自分だと思っているのは過去の自分であることに気づくことが、何度かあった。
 たとえば「あなたは足が速いですか」「相撲が強いですか」「野球は上手ですか」などと問われると、「はい、速いです、強いです、上手です」と答えてしまう。しかし、これは正確に言うならば「速かったです、強かったです、上手だったです」ということなのだ。
 自分の衰えを頭に入れずに答えているわけなのだが、それに気づいていることも不愉快ではない。そろそろ、折返し点から人生の後半にさしかかっていることに、何とはない面 白さを感じたりもしている。つまり、世の中の衰えも自分の衰えも、やわらかく受け入れる気分が湧いているのだ。老人として居直る年齢には早すぎるのだが、老人の一年生になったという感覚があって、老人の側に身をよせて考えようとする自分の傾向に、最近よく気づくのだ。
 こういう状態を何と呼ぶのかと考えると、どうやら思秋期という言葉がふさわしいのではなかろうかという気がする。したがって、紅葉の秋なんぞの味わいがこれまでよりずっと身にしみるのであり、“廃墟の観照”われにありといった心持だ。

   
村松友視(むらまつ・ともみ)
1940年、東京都生まれ。慶應大学文学部哲学科卒業。出版社勤務を経て、文筆活動に入る。1982年『時代屋の女房』で第87回直木賞受賞、1997年『鎌倉のおばさん』で第25回泉鏡花文学賞受賞。主な著書に『私、プロレスの味方です』『上海ララバイ』『作家装い』『アブサン物語』『俵屋の不思議』『力道山がいた』『アブサンの置土産』など多数ある。演劇、スポーツに造詣が深く、活動のフィールドは広い。


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