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周囲25km、最大水深163mの中禅寺湖は、日光を代表する湖である(写真上)。水面の海抜1269mは日本一の高さを誇る。 約2万年前、男体山の噴火によって渓谷がせき止められ、原形ができたといわれている。発見したのは日光開山の祖、天海大僧正の来晃(晃=日光の略)と東照宮造替後。奥日光とは、いろは坂から上の明智平、華厳ノ滝(写真左)、中禅寺湖から奥のエリアである。日光は48滝といわれるほど滝が多い。もっとも有名なのが華厳ノ滝だ。高さ97mから一気に落下する豪快さは一見の価値あり。那智ノ滝(和歌山)と袋田ノ滝(茨城)とともに日本の三大名瀑とよばれる。滝を間近で見られるようになったのは明治33年(1900)から。ブルーに彩られる1月〜2月の氷結は見もの。 |
| 日光の近代史は英国人の 避暑地から始まった |
| 日光市街から国道119号線を西へ、精銅所のある清滝町から120号線に入って約四キロ、奥日光の入口、いろは坂を登る。 枯れ野と呼ぶにはまだ早いが、野や山を紅や黄に染めた紅葉に、さっきから冷たい秋雨が降りしきって、車の窓をあけると、空気が染み入るように寒い。 たしかに暦でいえば、立冬である。この日から冬に入り、次の年の節分までが冬となっていくのだ。 いろは坂の名は、第一の旧道に四十八カ所の曲がり角があったところから、いろは四十八文字になぞらえてつけられたものという。正式には「日光道路」である。急なヘアピンカーブごとに番号と「いろは」の文字が標示されてある。 登り専用の第二いろは坂を登り切ると明智平。この名は、天海僧正の命名といわれている。一説によると天海は明智光秀と同一人物であり、日光の美しさをよく知っていた天海は、自分の名をどこかに残したくて、いちばん美しいところを明智平と名づけた、と伝えられている。 明智平から、さらにロープウエーが通じている。この展望台からは、華厳ノ滝や白雲の滝、大谷川の渓谷などが望まれ、北に男体山、西に中禅寺湖から、遠く日光白根山、南東方には関東平野が一望に見渡せる。 そして、明智平トンネル、白雲トンネルを抜けると、もう目の前は中禅寺湖である。日光の自然と風景美を代表する湖で、幸ノ湖あるいは雪浪湖、中宮祠湖などともよばれている。 『日光避暑地物語』(福田和美/平凡社)によれば、日光の近代史とは、避暑地の歴史以外のなにものでもなく、当時日本に滞在していた外国人にとって、日光には紳士の趣味を満足させる何かがあったからなのだという。 つまり、外交官たちが中禅寺湖畔をことさら選び、別荘地にしたのには町の喧騒を逃れることのほかに、もっと大きな理由があったのである。 それは鱒釣りであった。 イギリス紳士にとっては、釣りのなかでも「アングリング」と呼ばれる毛バリでの鱒釣りは、カントリー・ジェントルマンのたしなみであり、大切なライフスタイルなのである。 彼ら在日紳士にとって、この鱒釣りのできる中禅寺湖は単なる避暑地という以上の魅力を持っていたのである。 あの長崎の「グラバー邸」で有名な大貿易商トーマス・B・グラバーもその一人であり、日本に鱒釣りをもたらした先駆者の一人でもあったようだ。 すでに老境にあったグラバーが、奥日光戦場ケ原の湯川に釣り糸を垂れている姿は、想像してみるだけでどこか哀しさも感じられてくる。 金谷ホテルが誕生したのは、明治六年(一八七三)六月、外国人専用旅館、金谷カッテージ・インの開業からである。 上野―日光間に鉄道が開通したのは明治二十三年(一八九〇)だから、グラバーが日光を訪れたのも、きっとこのころだろうと思われる。 中禅寺湖から北東岸に美しい円錐形を描いて男体山が見える。別名“二荒山”“黒髪山”“国神山”とも呼ばれる。山腹の八方に“薙”と称される山くずれの跡が見えて、痛々しい。グラバーが釣り竿を片手に見上げていたころは、どう見えていたのだろうか。 ログハウス風のモダンな中禅寺金谷ホテルを右に見て戦場ケ原へ向かう。 |
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| 英国カントリーの風が吹く 戦場ケ原から湯ノ湖へ |
| 古くは、男体山の噴火によって湯川が塞き止められてできた湖であったらしいが、周囲から流れこむ土砂で埋めたてられて、しだいに浅くなって湿原となり、いまは荒涼とした草原となっている。 まさに枯れ野と呼びたいモノトーンの風景は、独特の味わいが漂う。季節にはレンゲツツジ、ノハナショウブ、アザミ、ワタスゲ、ホザキシモツケなどの花が咲き乱れるらしいが、いまは花一輪の姿もなく、枯山水や墨絵の美、わび・さびの美しさである。 雨がまた降りだした。色も音もないこの風景に、寂しげなムードをいっそう盛りあげる。 軽井沢には、どこか女性的で文学的なイメージがつきまとうが、日光は英国風カントリー・ジェントルマンの趣味を嗜む男たちの避暑地として愛されつづけていた、と言うのは『日光避暑地物語』の筆者、福田和美氏である。日光の風景は厳しい気候風土と、中世から山岳修験の一大霊場であったこともふくめて、たしかに男性的な色合いがとても濃いところのように見えてくる。 戦場ケ原の北に太郎山がそびえて見える。男体山、女峰山などの、いわゆる日光連山とは連ならず、一つだけポツンと離れているので“孤独な山”などとも呼ばれているそうだ。枯れ果 てた草木に孤独な山、ひっそり息をひそめたような草原に思わず詩心が漂う。 目指す湯ノ湖に着いたときは夕闇が迫ってきていた。今夜は日光の奥座敷とも呼ばれる古湯、湯元温泉に泊まることにしている。開湯の歴史は古く、日光開山の勝道上人の発見といわれるから、千二〇〇年以上も前のことになる。 湯ノ湖の北岸の水中には湯が湧いており、白くにごって湖面にほのかな湯気を立てていた。いまも鱒釣り場としても有名で、ここがわが国で初めてフライキャスティングが行なわれたところだという。 またここでも、グラバーの釣り姿が浮かんできた。毎年五月十五日の解禁日には、たくさんの太公望たちでにぎわうのだそうだ。 時はさかのぼって明治四十四年(一九一一)十二月十六日、東京市麻布区富士見町の屋敷で、妻に先立たれたグラバーは、午後一時半永眠する。七十三歳であった。 |
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