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| 本郷といえば東京大学の学生街だ。そして、明治の昔から文学の舞台として登場してきた町である。いまも菊坂、新坂あたりは明治、大正時代の建造物が残っている。古い民家に混じって樋口一葉や石川啄木ゆかりの見どころがあり、徳田秋声旧宅などが点在している。昭和初期の少年少女に夢を与えた高畠華宵の絵を集めた弥生美術館がある。心温まる童謡や詩で知られるサトウハチロー記念館がある。路地裏はきれいに掃き清められ、打ち水が撒かれ、ところ狭しと並んだ鉢植えが季節を伝えていた。『日和下駄』を書いた永井荷風がひたすら歩いた下町が、本郷界隈にはまだ残っていた。荷風は、ほとんど散歩中毒だった。好んで歩いたのは裏町であり、横道だった。溝川沿いの仕立屋、いも屋、駄菓子屋、ちょうちん屋、三味線の音、椎や樫の緑したたる若葉の陰、路傍の石地蔵、閑地に咲くハコベや藪芥子の花、夕日の美しさ、富士の遠景、そういう風景の中を、荷風は「金は使はず、呑気に」歩きまわった。4月下旬から5月の上旬、根津神社のつつじが満開になった。歩き回るのにふさわしい季節だ。本郷、谷中、根津、千駄木…東京の下町は荷風のように、ただ呑気に歩くに限る。 |
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根津神社のつつじ祭りは有名。4月下旬から5月5日まで、境内に植えられた50種、3000株が満開になり、GWの連休とも重なって、1日だけで約4万人が訪れる。根津神社(左の写真)は日本武尊が創建したと伝えられ、権現造りといわれる社殿は、徳川5代将軍綱吉が宝永3年(1706)に氏神として造営したものだ。9月の権現祭りは、江戸3大祭りとして昔から有名である。この界隈は文学の小道でもある。森鴎外や夏目漱石の旧居跡があり、とくに千駄木周辺は、夏目漱石の『吾輩は猫である』に細かく描写されている。つづじ祭りの帰りに、下町旅情を散策したいものである。 |
| 路地を抜けると昔懐かしい 風景がそのまま残っていた |
本郷交差点から東大方面に少し進むと、左手にゆるやかな下り坂が続いている。この坂が菊坂で、その名は、室町時代にこの辺り一帯に菊作りの家が多くあったことに由来している。 そんな菊坂の名のいわれが、通りの隅に建っている文京区の案内板に記されてあった。 その菊坂から一歩裏手の細い路地を入ったところに、樋口一葉(一八七二〜九六)が暮らしていた旧宅の跡がある。 一葉が菊坂に住んでいたのは、明治二十三年(一八九〇)から二十六年にかけてのことなので、十八歳から二十一歳ごろまで、貧しいながらも小説家を目指していたころの一葉が住んでいたゆかりの地である。 路地の奥には、いまも当時の井戸があって、そのかたわらの案内板にはこう書いてある。 「ここで十八〜二十一歳の一葉は母と妹の三人の家族の戸主として、他人の洗濯や針仕事で生計を立てた。おそらく、ここにある掘抜井戸の水を汲んで使ったことであろう…。」 明治二十八年九月、『文芸倶楽部』に「にごりえ」を発表。一葉の名声は、この年一気に高まる。しかし翌二十九年、肺結核に侵されていた一葉は、わずか二十四年の生涯を閉じている。 井戸のまわりには手入れのゆき届いた植木が繁り、色とりどりの小さな花が路地いっぱいに咲いていて、気持ちがいい。井戸もそうだが、前が板になっているコンクリートのゴミ箱や、防火用水の石槽、簾や竹ぼうきだって、一つ一つ懐かしい。町内の幼なじみが、いまにも後ろからポンと肩を叩いて声をかけてきそうである。 さっきからこちらの様子をながめていた近所の老人が、気軽に声をかけてきた。 にこにこというわけでも、ぶしつけというのでもなく、それはきわめて自然に、一種独特の気さくな下町の優しさとでもいうのだろうか、 「この階段を上って菊坂に戻り、左に折れたすぐ右に、一葉がよく通った“伊勢屋”という質屋がいまでもそのまま残っているから、ぜひ見て行きなさい」 と、わざわざ自ら案内をかってくれた。 創業万延元年(一八六〇)という質屋の蔵が、そのまま残っていた。なるほど、いまにも崩れてしまいそうに古いが、こうした建物が菊坂にはいくつも残っていて、ノスタルジックな雰囲気があたり一帯をつつんでいる。 |
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| ※谷根千をそぞろ歩けば 東京下町の風が吹き抜ける |
| ※谷根千(やねせん)=東京下町の町名、谷中、根津、千駄木を省略した呼び方 界隈という言葉がある。 そのあたり一帯、あたり近所、という意味である。 以前、作家の森まゆみさんが、文学散歩や歴史散歩は、目的地のA地点からB地点へとやたらに黙々と歩くだけではつまらない。単に有名なもの、文豪の旧居や歴史的な寺社ではなく、むしろ目的地のAとBの間を、普通の人の普通の暮らしがいかにおもしろいか、という感覚で歩くかが大事なのだ、というようなことを述べていたことがあったが、正にこの界隈散歩こそ、その“路地裏散歩”の極意のようだ。 界隈散歩は寄り道散歩だから、なかなか目的地には到着しないが、それだけに微妙な町の生活をじっくり味わえる良さがある。 ぼくも気の向くままに、質屋「伊勢屋」の脇の狭い路地に魅き込まれるように入ってしまった。 中へそっと入って行くと、左手の奥から二軒長屋が三つ並んでいる。奥の二つが明治、三つ目が大正十二年の震災直後の建物だという。 ぼくらの足音を聞いたのだろうか、白いちぢみにステテコ姿の老人が顔をのぞかせ、教えてくれた。この家の玄関の前にも小さな井戸があった。 そういえば、さっきから路地を行き来していて気がついたことがある。 これほど人家が密集しているのに、路地路地になんと緑の多いことだろう。それも広々とした庭にではなく、狭い路地の奥の隅々にまで植木鉢に育ったキュウリやナス、トマトまであり、青々としたその緑がなんと暖かく映ることだろうか。 それだけで日々の生活観がこちらに伝わり、ぼくの子ども時代をも彷彿とさせ、またまた懐かしくなる。 本郷、湯島、根津、千駄木、谷中…どこを歩いてみても文豪ゆかりの旧跡めぐりとなるのだが、そんな地図にない横町の路地歩きも、ぜひここでおすすめしておきたい。 「路地の光景が常に私をして斯くの如く興味を催さしむるは西洋銅版画に見るが如き或はわが浮世絵に味ふが如き平民的画趣とも云ふべき一種の芸術的感興に基づくもの」 と、これは永井荷風の言葉である。 どうして、これほど町場に路地が多いのか、については江戸の歴史的理由がちゃんとある。 それは一六五七年(明暦三)の明暦の大火、俗にいう「振袖火事」からである。火元は本郷丸山町の日蓮宗本妙寺。火はまたたくまに本郷をなめつくし、江戸市中の六割が灰になってしまった。「江戸城天守閣、富士見櫓、二の丸、三の丸、諸大名家五〇〇軒、神社仏閣三〇〇余、橋六〇、町数八〇〇」が焼失したと『徳川実紀』に記録がある。死者十万人余が両国・回向院に埋葬された。 火事後、江戸の都市改造プランがつくられる。大名屋敷、武家屋敷、寺社が大移動。道路も整備され、火除け地も設けられた。 当時の江戸「八百八町」は、実は一六七八町。面積では武家地六割、寺社地二割、残りの二割が町民の生活の地で、ここに人口の半分が住むことになる。当時の人口は約六十万人というから、路地が密集してくるようになるのもやむをえまい。 長屋住まいはたしかに狭そうだが、本郷界隈はどこを歩いても、みんな古い町にふさわしい独得の落ち着きがあって、ひっそりとしたぬくもりに日々つつまれているようだ。やはり人が住むというのは、こうした環境こそ本当は必要なのだろう。 |
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●本郷散策コースは地下鉄丸の内線・本郷3丁目下車。3丁目交差点→菊坂→新坂→東大赤門→弥生美術館・竹下夢二美術館など所要時間1時間半。 ●根津神社はJR山手線鶯谷駅から徒歩5分。谷中は鶯谷駅の隣りの日暮里駅下車。谷中は寺めぐりを中心にして下町情緒探索を楽しみたい。 ●お問い合わせ先摯カ京区経済観光課03(3812)7111 |
