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| 米沢藩中興の名君、上杉鷹山を祀る松岬神社 |
構造改革を断行した上杉鷹山像 |
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| 米沢はしっとりとした城下町の面影をいまも残していた。長井、伊達、蒲生、上杉の名だたる英雄を育んできた街だ。セピア色の風が吹く時間の中で、どれほどのドラマが繰り広げられてきたのか。藤沢周平は米沢を舞台にしたドラマを数多く小説に残した。なかでも上杉家二代目藩主・上杉景勝と家老・直江兼続を描いた『密謀』や晩年の秀作、上杉鷹山を描いた『漆の実のみのる国』は文学史に残る作品である。藤沢周平は取材のために幾度となく米沢を訪れている。米沢の自然と風土の美しさは、描かれた小説の中に垣間見ることができるので、一読をおすすめしたい。 | そして近代日本がよちよち歩きを始めて間もない明治十一年五月、ひとりの無名の 英国人女性が来日し、米沢を訪れている。彼女の名はイサベラ・バード。世界各地を旅するうち、神秘の国、気候のよい美しい日本に憧れてやってくる。その見聞録『日本奥地紀行』(東洋文庫・高梨健吉訳)の中でイサベラは、「置賜(米沢)盆地は実り豊かに微笑する大地」と書いている。米沢の秋はまさに野も山も黄金色に輝き、満面に笑みを浮かべて旅人たちを迎えてくれた。母なる川、最上川の流れも朝霧の奥でみずみずしく輝きを増していた。 |
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米沢市郊外の鬱蒼とした杉木立の中で、凛としてたたずむ笹野観音(笹野幸徳院)には、ぜひ立ち寄ってほしい(写真上)。1195年前の大同元年(806)、弘法大師の高弟・徳一上人によって開基されたと伝えられる笹野観音は、伊達、上杉氏の信仰篤く、お堂は1843年に再建されたもの。それほど大きくはないが、時空を超えて時代を見つめてきた茅葺き屋根のお堂には、周囲を圧倒する存在感があった。毎年1月17日に行なわれる笹野観音初十七堂祭は、古くは旧暦12月17日に行なわれていたので、年越し祭りといわれていた。参道には一刀彫りを売る露店が並ぶ。 |
| ケネディ大統領が尊敬した 上杉鷹山、財政改革の軌跡 |
米沢は上杉の城下町である。 いうまでもなく、あの武田信玄との川中島合戦の一騎打ちで有名な戦国武将・上杉謙信(一五三〇〜一五七八)が藩祖である。 史上最強とうたわれた越後軍団を率いて、彼は関東、信濃、越中を駆けめぐった。生涯の合戦の数、七十回余り、一度の負け戦もなく、その勢いは、さしもの織田信長をも恐れさせたといわれる。 二代は上杉景勝(一五五五〜一六二三)。関ヶ原の戦いで西軍側についたため、もともと会津百二十万石だったものが戦後、徳川家康から減封。なんと三十万石に減らされたうえ、ここ米沢へ移された。 しかも、会津藩の家臣六千人をそのまま引き連れやってきたので、小さな米沢城下にはとても納まりきれず、郊外に屯田(荒地を耕作して食糧の自給を図ること)させて、半農半武士的な生活でようやく暮らしていた。さらに相続問題のこじれから、石高を十五万石にまで半減させられてしまった。 十五万石というと、通常家臣は二千人ぐらいになるものらしいが、米沢藩は六千人余。それでも家臣を少しも減らそうとしないから、いわば米沢は武士だらけの、ひどい貧乏藩に転落してしまったのである。 以後、九代重定の時代までに藩財政は破産寸前にまで追い込まれる。 後に「清貧の名君」といわれる、九州の日向高鍋藩主秋月家の次男・治憲(上杉鷹山)が迎えられたのは、こうした時代であった。 かつて、ケネディ大統領が尊敬する日本の人物をたずねられて「上杉鷹山」と答えた、というのは有名な話だが、上杉鷹山(一七五一〜一八二二)は第十代米沢藩主である。 九州の小藩から名門・上杉家の養子となり、十七歳の若さで藩主となるや、破綻寸前であった米沢藩の財政改革を大胆に推進し、あらゆる手段を尽くして立て直していったのである。 もっぱら、質素倹約を率先垂範した名君としてのイメージばかりが強いが、それだけでは破産状態の藩を立て直すことができるわけではない。彼が名君であることの業績をあげれば数限りがないが、天明五年(一七八五)に家督を養父重定の子、治広に譲ったとき、鷹山が米沢藩主としての心得を次のように与えている。 「一つ、国家は先祖より子孫に伝え候国家にして、われ私すべきものにはこれなく候。一つ、人民は国家に属したる民にして、われ私すべきものにはこれなく候。一つ、国家人民のために立てる君にて、君のために立てる国家人民にはこれなく候。右三箇条、ごいねんあるまじく候こと」 まるで現在の民主主義思想を説いているようである。 ケネディ大統領もこの「伝国の辞」を読んで「尊敬する世界の偉人五十人の一人」に数えあげたそうである。 |
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流れる上杉家の家訓 |
米沢駅からまず松岬公園に向かう。 舞鶴城・松岬城ともよばれた米沢藩主上杉氏代々の居城跡である。 藩財政が極度に窮乏していたためからか、外堀や溝渠は掘ったが天守閣は置かず、当時から建物も全体に質素でつましいものだったらしい。 園内には、上杉謙信を祀る上杉神社、鷹山を祭神とする松岬神社、重要文化財・古文書の多い稽照殿などがある。この稽照殿に上杉鷹山筆の「伝国の辞」が掛け軸として残されている。 かつての堅城の面影はないが、いま数百本の桜が植栽されて桜の名所となっている。 米沢のもう一つの名所は、やはり城外にある上杉氏歴代の藩主廟、上杉家御廟である。御廟前のバス停から北へのびる道をたどると、うっそうとした森が見えてくる。杉木立の中の森閑と静まり返った参道を歩くと正面が墓所。 入り口に、あの上杉謙信の軍旗である「龍」と「毘」の大きな旗がはためいていた。 「毘」とは毘沙門天の「毘」に由来するもので、毘沙門天は仏法を守護する神であり、また戦勝の神ともいわれる。いわば謙信の守護神であった。 墓所の中央が初代謙信、すぐ左に二代景勝、右に三代定勝というように、左右交互に十二代斉定までの歴代藩主の墓がずらりと並んでいた。十代治憲(鷹山)は左五番目にあった。 七千坪もあるという杉林の中で、ひんやりとした空気につつまれたこの廟にも、質朴をむねとした家風が感じられ、墓所とは思えぬさわやかな印象が残る。 家風といえば同じ山形県でも、山形と南の米沢では気質がかなり異なるのだそうだ。 山形では米沢の人のことを“ザワ衆”と呼び、頑固で口やかましい人たちと呼んだりする。江戸時代に十三回も領主の代わった山形と、上杉十五万石を必死に守ってきたと自負する武士団の子孫では、同じ城下町といっても、長い時間を経てきた郷土愛がまるで異なってくるのもいたしかたのないことなのかもしれない。 上杉鷹山の業績をいまに伝える書はこれまでにも数多くあり、バブル経済が崩壊した後、ますますその評判を高めている。いまも基幹産業である米沢織で知られる織物工業や、笹野一刀彫や相良人形などの工芸品、鯉の養殖、そばの栽培など鷹山の遺産は限りない。 三十五歳で隠居して三の丸に隠殿をつくり、そこに鷹山は住んでいたが、その隠殿の名は餐霞館、つまり霞を食う館である。いまそこに有名な次のような石碑が建っている。 「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 文政五年(一八二二)、鷹山は七十二歳で亡くなった。 |
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米沢までの交通 ●東京駅から山形新幹線で2時間10分。仙台からは福島経由(東北新幹線25分)で山形新幹線に乗り換えて30分。山形からは山形新幹線で33分。 ●空の便は、山形空港まで千歳、羽田、大阪、名古屋から飛んでいる。 ●市内観光は米沢駅からバスで、まず松岬公園へ。ここからスタートする。モデルコースは3時間で回れるが、郊外にある笹野観音まで足を延ばしたい。 ●お問い合わせ先 米沢観光協会/Tel:0238(21)6226 |