FUSO History


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昭和31〜32年にR32型大型バス600台がチリに輸出された

わが国最大のR32型
リヤエンジンバス
600台をチリに輸出


 昭和30年(1955)、ビッグニュースが飛び込んできた。チリ国交通営団向けに、ふそうR32型リヤエンジンバスの第1次輸出300台の契約が成立し、翌年5月に船積みを行なったのである。
 この年、再び第2次300台の受注に成功し、翌32年12月に船積みが完了した。このチリ向け600台の輸出は当時、わが国の自動車輸出としては大ヒットだった。R32型は全長12080mm、定員94人乗りのわが国最大のリヤエンジンバスで、川崎製作所でつくられた(ボデーは富士重工製)。
 エンジンは米国カミンズ製180psを、トルクコンバーターはスパイス製を搭載した。この経験は、その後のふそうバス設計や生産技術の進歩に大きな貢献を果たした。
 昭和33年(1958)に入ると、R200型リヤエンジンバスのエンジンDB7型を130psから155psにパワーアップしたDB31型に変更し、加速力、最高速を高めたR300型が開発された。
 このシリーズには、ショートホイールベースのR380型、西日本車体工業製フレームレス構造のWR380型があった。

 

時代をリードする三菱ふそうトラック・バス70年、進化の軌跡


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チリ向け輸出用R32型バス(米国カミンズ製180psディーゼルエンジン)
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昭和33年、チリに輸出したR32型を経験に開発されたR400型
 
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昭和33年、初めてエアサスペンションが採用されたAR470型
 
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昭和35年、最初の小型バス、21人乗りローザB10型
縦置きエンジン、
エアサス、フレームレス、
車種多様化の時代に


 昭和33年に関門国道トンネルが開通し、翌年3月には国鉄バス関門急行線が開業。山口〜博多間165kmを結ぶ高速長距離バスに、R300型を改良したR400型シリーズのR450型とR460型が採用された。
 R400型は、チリ向けR32型の経験をいかし、従来の横置きエンジンを縦置きに変えたものだ。そして、わが国初の排気ターボ過給機付きディーゼルエンジンDB34型を搭載し、さらにエアサスペンションを初めて採用した。
 この後、大きく需要が伸びて量産態勢に入り、縦置きエンジンは、トラックと部品を共用するためにも有効だった。
 つづいて、エアサスペンションを採用したAR470型、AR480型が生産された。Aはエアサスペンション付きを判別させるために冠せられた。
 翌34年には、急速に高まってきたフレームレスモノコックのMAR400型の生産を開始した。車種の多様化時代に突入したのである。Mはフレームレスを意味し、Rはリヤエンジンのことである。

わが国初のリベットレスの
小型バス
“だるま”ローザの誕生


 昭和35年(1960)10月、わが国初のリベットレスバスが登場した。西独ベンツ車を参考に、中型トラック・ジュピターの足まわりと、ジープ用エンジンJH4型を搭載した21人乗りの小型バスが名古屋自動車製作所で完成し、ローザと名づけられた。
 これは小型バスの需要の高まりに応えて開発されたものだった。
 小型バスとして初めてのハイドロマスター(真空式制動倍力装置)を採用し、制動力を強化。燃費7.8km/と経済性にもすぐれ、強い登坂力、小まわりのきく機動性が評価され、その外観から「だるまローザ」の愛称で人気となった。

 


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昭和30年、T31を改良したT33型8t積みトラックが生産された
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昭和34年、最初のキャブオーバー8t積みトラックT380型
 
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昭和34年、中型トラックの先駆けとなったジュピターT10型
 
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昭和35年、思い切ったノーズダウンスタイルのT330型を生産

ボンネット型の終焉
キャブオーバー
トラックの登場
 昭和30年後半から、車両関連法規が厳しくなった。それに対応し、8t積みT31型トラックを改良して、ホイールベースを延長し4800mmに、ブレーキをエアマスターに、さらに新スタイルのオールスチールキャブにしたT33型を、また、7.5t積みT32型を改良し、ブレーキをエアマスターにしたT32A型を発売した。
 昭和33年には、T33型のエンジンを155psにパワーアップしたT33(新)型を、また、上物架装を有利にするために、T32B型のホイールベースを4300mmにしたT320型を発売した。
 さらにT33型をベースに、後軸をエアサスにしたAT33型を発売。業界初のエアサストラックとして、かなりの評判となった。
 大型キャブオーバートラックを最初に量産したのは三菱日本重工業だった。昭和34年9月から生産を開始したT380型である。
 つづいて12月、わが国最大積載量の後2軸式の11.5t積みT390型の生産も開始した。
 キャブオーバーのT380型は、ボンネット分だけキャブが短くなり、それだけ荷台が長くなるだけでなく、視界も開けて運転しやすくなった。ボンネット型の終焉であった。
 昭和32年から、T33型をベースに、エアブレーキを装着したT35型トラクタを生産。
 つづいて昭和35年(1960)、T33(新)型ならびにT320型の後軸ケースを板金製にし、軽量スプリングを採用するなど各部の改善を行ない、T330型(カーゴ)、T335型(ダンプ)、T350型(トラクタ)を登場させた。T350型は、8tクラスのトラックトラクタの主流となった。


空白を埋める好企画
中型トラック
ジュピターの誕生


 新三菱重工業水島自動車製作所が中型4輪トラックの生産を開始したのは昭和34年からであった。
 当時、6tクラス以上の大型トラックと2tクラス以下の小型トラックは生産されていたが、2t半から4tクラスまでは、どこのメーカーも生産していなかった。
 その空白を埋める新三菱重工業の企画は当たった。昭和33年にKE31型ディーゼルエンジン搭載の2.5t積みT10型と、JH4型ガソリンエンジン搭載の3t積みT11型の試作車が完成した。
 これをジュピターと名づけて、昭和34年から本格的に生産を開始。翌35年には3.5t積みのT22D型が発売された。

70th
『太陽の季節』『週刊新潮』…
戦後の新しい日本文化の台頭

★昭和30年(1955)この年、全国の電話加入数が200万台を突破し、トランジスタラジオが発売されて大ブームとなる。アルミ1円貨が発行された。
 一橋大学に学ぶ学生作家・石原慎太郎が『太陽の季節』を「文学界」に発表。戦後の新しい青年像を描いて話題となる。翌31年、芥川賞受賞。
★昭和31年(1956)、新潮社が『週刊新潮』を創刊。出版社による初の週刊誌だった。これをきっかけに翌年以降、次々と週刊誌が創刊され、週刊誌ブームが到来する。
 日本登山隊が「神の山」ヒマラヤ・マナスルに初めて立つ。槙有恒隊長率いる一行が3度目の挑戦で成功した。
★昭和32年(1957)、南極観測の夜明け。1月29日、永田武隊長以下53名からなる第1次南極観測隊が、南極大陸リュツォホルム湾のオングル島に上陸、昭和基地と名づけた。
 ソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功。アメリカの人工衛星も翌年1月に成功する。この年、タバコの自販機が登場。100円硬貨と5000札が発行される。
 石原裕次郎主演の日活映画『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。前年に公開された『太陽の季節』につづいて『処刑の部屋』『狂った果実』『逆光線』と、たてつづけに公開された太陽族映画に主演した裕次郎は一躍、銀幕の大スターになった。

所得倍増計画で日本国民は
バラ色の夢を見た

 ★昭和33年(1958)、この年、前年のタバコ自販機に次いで酒の自販機も登場。1万円札が発行される。
 テレビ時代のシンボル、当時、世界一高い東京タワーが完成。東京にある7つのテレビ局の発信、中継基地として建設された。それまで世界一だったパリのエッフェル塔をしのぐ高さ333mそのまま、急成長する日本経済の象徴であった。
 神戸三宮に「主婦の店ダイエー」開店。廉価販売、セルフサービス商法で流通革命の先頭を切った。
★昭和34年(1959)4月10日、世紀のロイヤルウェディングに国民はテレビの前に釘づけとなる。前年11月に婚約した皇太子明仁親王と正田美智子さんの結婚式を見るために、国民はテレビを買い求め、電器店のテレビを一掃したといわれた。
 極寒の南極に残されていたタローとジローが生きていた。第1次越冬隊が天候の激変でやむなく残した樺太犬2頭が、第3次観測隊によって発見された。このニュースは、日本中に深い感動を呼んだ。
★昭和35年(1960)、この年は即席ラーメン、インスタントコーヒーが登場。日本初のロングサイズ・タバコ「ハイライト」が発売され、ダッコちゃん人形が大流行した。
 6月、安保条約反対を叫んだ全学連たちが国会に突入。いわゆる60年安保闘争の始まりであった。
 8月、第17回ローマオリンピック開催。男子体操が宿敵ソ連を破って、念願の団体総合優勝を果たした。
 12月、池田内閣が10年間で国民総生産を倍増させ、国民の所得も倍増すると発表。この年の流行語「家つきカーつきババア抜き」が、日本経済のバラ色を象徴していた。




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