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連載37 |
三人集まればゴルフ場造りの話が持ち上がる時代があった。男たちは、自分の考えを設計に生かし、運営した。 アメリカでも、鉄鋼王の間では、自ら設計もし、ブルドーザーを運転した変人がいた。フィラデルフィアは鉄鋼の街で黒煙が立ちこめ、冬は石炭煙で太陽が見えない日もあった。 そうした鉄鋼王たちの中にはゴルフ狂いがいて、自分のゴルフ場を造ろうと、本業そっちのけの「遊び場」に骨身を削った男たちがいた。 独立心は尊いことで、新しい産業を生み出す原動力である。ことゴルフ場建設を見ると、ほとんどが現在の会員制クラブに馴染めず、「それならおれのゴルフ場をつくってやる」という男たちが、昭和初めの日本にもいた。アメリカのフィラデルフィア一帯で巻き起こったゴルフ場ブームと時同じくしたゴルフ場造りである。 その男の名は、加藤良という造船技師長である。 加藤は東京ゴルフ倶楽部が駒沢にあった頃の、昭和四年までの会員の一人。三次か四次頃の入会だから遅い方にあたる。 加藤のお気に入りは、アメリカ留学から帰国した赤星六郎だった。赤星六郎は第一回の日本オープン(昭和二年)開催の提唱者であり、自ら初代チャンピオンになった男である。 大正十三年頃の赤星六郎は、まだ会員ではない。大正十四年に入会している。それまでは長兄・赤星鉄馬や母方の親戚にあたる樺山愛輔に同行した特別なビジターであったから、クラブ運営にも持論を述べた。 そのひとつが、プロゴルファーの扱い方である。これまでは、一従業員として社員待遇だったのを、欧米の例を引き合いに出して、 「クラブハウスの外にプロショップをつくり、プロの仕事場にする」 というシステムを提案して、日本で初めてプロの存在を評価した。 造船技師長で浅野ドック社長の加藤は、赤星四郎や六郎のレッスンを受けて腕を上げ、ついには昭和二年の東京ゴルフ倶楽部のプリンス・オブ・ウェルズカップに出場して、本戦のマッチプレーに進出した。準々決勝で首藤安人に2ダウンして敗れるが、昭和三年のシニア選手権では準々決勝で三菱地所の赤星陸治を7エンド6の大差で破って準決勝に進んでいる。 準決勝では、この大会優勝者の成瀬正行に1ダウンの僅差で敗れるが、同年の摂政宮殿下杯でも本戦まで進み、若い小寺酉二に2エンド1で敗れるという腕前だった。 ところが加藤良が、東京GCを突然退めて、自分のゴルフ場を造るというアクシデントが起きた。 それは昼食のときに起きたことから、のちに「加藤の真昼の決闘」とまで言われた。 |
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それが一度や二度ではない。 「メンバーのクラブに上下はないんだ。ここはクラブなんだ。いいかげんにせい!」 ついに怒鳴った。 加藤ならず、他のメンバーの中にも18ホール(大正十五年)になって間もないというのに、地代値上げにより、会費が値上げされて不満たらたらだった。 そのうちに地代が支払えず、駒沢から他の土地に移ろうという話まで持ち上がるなど、東京GCはごたごたしていた。そのさなかの出来ごとである。 加藤良は東京GC会員の鳩山一郎、下村楚人冠、柔道界の加納治五郎らに相談、千葉県の我孫子に用地を捜した。何が何でも駒沢よりも立派なゴルフ倶楽部をつくり上げてやる、との気がまえで、費用捻出に私財まで投げ打った。その上、借金までしていた。 設計は、日本オープン初代チャンピオンの赤星六郎に依頼。六郎は彼が優勝した米国サウスカロライナ州のパインハースト・ナンバー2にヒントを得て18ホールの図面を描き、設計と工事現場に立ち会うことになる。 |
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加藤が、松戸よりさらに遠い我孫子の用地買収に入っていた昭和四年の冬には、武蔵野CC六実コース(松戸)と藤ヶ谷が18ホールで開場している。 いずれも経営者は東京GC会員である。その他にも横浜には程ヶ谷GC(現横浜国大)、埼玉県には霞ヶ関CCが開場している。 加藤は六郎を口説いて、本物の18ホールのリンクスづくりに、私財を投げ打って着工した。自ら現場に立ち、人夫たちに号令をかけた。 当時はトロッコとモッコ、馬カを使っての土の移動である。加藤は現場近くに小屋を建てて寝泊まりし、 東京からくる赤星六郎と一緒に工事を指揮した。 「日本で一番のゴルフ場をつくってやる」 加藤清正の子孫である加藤良は、難攻不落の熊本城をつくった先租のことを思い出してか、「難攻不落の名門コースづくり」に家庭を顧みず、精魂を打ち込んだ。自ら鋸を引いて松を切り倒している。 人夫が足りないと、地下タビをはいて人夫と一緒にモッコを担いで土を動かした。本業の浅野ドックでは造船ブームで、こちらも手が抜けない。しかし土曜日から日曜日の二日間は我孫子の小屋泊まりである。 |
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「どうだい、この1番ホール、左ドックレッグは。あの左のバンカーを越せばバーディーチャンスありさ」 六郎が指差す左手には、人夫たちが入って背たけ以上もの穴を掘っていた。 「おい、象でも埋めるつもりか」 「そうだよ、象の墓場だ。おれは、こんな男らしいコースが造りたかったんだ。 ここで腕を磨けば、世界一のプロが育つんだよ。どうせやるなら世界一だよ、六さん」 二人の男は雨の日も泥まみれになって、人夫たちと一緒に土を運んだ。 昭和五年、まず9ホールの芝張りを終えた。ひと梅雨、天の恵みの雨に、芝が育った。秋には9ホールが仮オープンできるな、と安堵した直後だった。 加藤良は突然の病に倒れ、帰らぬ人となった。 加藤の死と引きかえに、9ホールがオープンした。赤星六郎は、加藤の意志を引き継ぎ、さらに残り9ホールをつくり上げる。 二年後、加藤家は借金だらけだったことが遺族の口から出て判る。我孫子GCは加藤の化身であった。 |
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| ●はやせ・としゆき 1940年、長崎県生まれ。鹿児島大卒業。 雑誌記者を経てライターへ。『タイガー・モリと呼ばれた男』で第2回ミズノ・ライター賞受賞。 代表作に『遥かなるスコットランド』『ジャンボ』 『日本最強のプロゴルファー戸田藤一郎』 『杉原輝雄・もう一度勝ちたい』『将軍の真実』『昭和武蔵』などがある。 |