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| 網走バス株式会社は戦前、戦中、戦後と、いくつものバス会社と合併・分離をくり返してきた。網走バス(株)として誕生したのは、昭和27年のことである。昭和37年に名鉄グループの傘下に入り、39年の網走バスターミナルの完成とともに、本社は現住所(網走市南2条西)に移転した。路線、都市間高速バス、貸切バスを主営業とし、國田社長はまた、知床観光船「おーろら」、「おーろらII」、網走流氷観光砕氷船「おーろら」、「おーろらII」、網走観光ホテルを運営する道東観光開発(株)、(株)網走ハイヤーの代表取締役も兼務している。 | ![]() ![]() |
| 昭和63年の暮れ。当時の網走バスの鈴木社長と網走市の観光課長が居酒屋で飲んでいた。話題は、どうしても暗くなった。道東の冬は早く、11月の声を聞くと観光シーズンは終わりになってしまうからだ。 それにも増して、1月から4月まで、オホーツク沿岸は流氷におおわれ「死の海」と化す。漁師たちは、すべての漁船を陸に引きあげ、炬燵のなかで膝をかかえながら、ただひたすら春を待つしかなかった。 漁師たちだけではない。観光を生業とする者にとっても、流氷はロマンチックな白い来訪者だと思う余裕などなかった。「死の季節」を意味する「白い魔物」の襲来だったのである。 網走市の観光課とて、手をこまねいていたわけではない。昭和41年から雪、流氷、白鳥の「3つの白」をテーマに観光キャンペーンを始めたが、反響はまったくなかった。それから十数年が過ぎていた。 「この流氷が金塊だったらなあ…」 観光課長の愚痴が、鈴木社長の脳裏に稲妻のごとく閃めいた。 「金塊! それだよ。流氷を金の鉱脈に変えるんだよ。砕氷船を走らせて、オホーツク海のど真ん中から観光客に流氷を見せる…」 流氷の生みの親は、ロシアと中国の国境を流れるアムール川(黒龍江)である。アムール川は、極東で揚子江に次いで2番目の大河だ。 この大河から、シャンタルスキー湾にどっと吐き出される大量の真水で、オホーツク海の表面に塩分の薄い層ができる。それが、シベリアから吹き込んでくる冷気によって零下1.7度以下になると氷結が始まる。 最初は針状の氷晶であるが、固体は液体より軽い性質をもつので、どんどん浮かび上がってくる。これがシャーベット状の氷泥となり、蓮葉氷、氷板と姿を変え、やがて風に吹かれ、海流に乗って南下する。1000kmの旅の終着駅が北海道オホーツク沿岸で、流氷の南限だった。 砕氷船を走らせるといっても、1隻の建造費は10億円もする。親会社の許可もいる。だが、平成に入って、あとを引き継いだ杉浦社長の尽力で、決断が下された。 全長45m、全幅10m、総トン数491トンの「おーろら」が発注された。平成2年に進水式。運航開始は翌3年1月からだった。 |
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| 流氷が、どれほどの人気を得られるのか、まったくわからないままでのスタートだった。宣伝も十分ではなかった。それでも4万人の観光客が乗船してくれ、たちまちのうちに砕氷船は網走の、というより、北海道観光の超目玉となったのである。 観光客の増加にともない、平成7年に2隻体制にした。昨年は流氷期間が短く15万人だったが、一昨年は20万人。ここ数年の平均利用客数は18万人前後だという。 今年2月の3連休は、運航開始以来、最高の1日6000人の乗船客を記録した。今年は、最終運航日の4月3日までに約20万人を見込んでいる。 かつて「白い魔物」だった流氷は、いま天与の贈り物として、地元を潤す観光資源となったのである。 流氷の様子で砕氷船の運航期間は多少変わるが、1月下旬から運航を開始し、例年2月がピークとなる。3月下旬〜4月上旬に流氷観光は終了し、砕氷船は釧路のドッグに入り、メンテナンスと化粧直しをする。 次は、GW前から10月下旬まで、知床観光船「おーろら」として活躍する。夏と冬を比べると、期間は短いが、軍配は冬にあがる。しかし、「どちらが欠けてもだめ」という。 幸い今年、知床は世界自然遺産に指定されそうだという。そうなると、夏の知床岬航路が、がぜん脚光を浴びる。「おーろら」はいま、順風の最中で出航を待っているのである。 夏のシーズンが終わると、「おーろら」は再びドッグに入り、流氷の季節を待つ。 「北海道の観光シーズンは、夏場2か月半、冬場2か月がピークです。このシーズン以外をどうするか。道東の自然遺産をどう活かすか。先輩たちの発想が冬の網走に奇跡を起こしたように、可能性は無限です。それが我々の知恵の絞りどころです」 國田社長は、そう力強く締めくくってくれた。 |
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