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「お早うございます」が
意識革命の第一歩だった |
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オール三菱ふそう車になったのは昭和60年からである。
作業上いちばん大切なゴー&ストップが容易にできる
オートマチックが、3.5t車でも標準仕様で設定されたからである。
本来はオプションであったが標準仕様にしてもらったという。
以来、毎年2台ずつ増車してきた。
取材前日にも最新鋭装備の4tスケールパッカー車が納入された。
いい車だ、とその場で追加注文を出されていた。
作業に必要な装備には投資を惜しまない。
ISO14001は平成14年に取得。ISOの理念は社長の理念と重なりあったという。
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昭和30年以前、ゴミの収集は自治体が直接行なっていた。しかし、舞鶴市では市の赤字財政を解消するために、民間に委託することになった。
創業した先代社長は、舞鶴市の職員だったが退職し、この事業化を引き受けたのである。市から一般廃棄物処理業の許可を受け、当時は三輪車だった2台の清掃車で業務を開始した。昭和30年のことである。
舞鶴港には、まだ多くの引き揚げ者があふれる時代だった。一般廃棄物回収業といえば聞こえはいいが、一般家庭の残飯や生ゴミを集めるのが主な仕事だった。
「汚い、きつい、危険」。のちに3Kということばが生まれるのだが、当然、若手社員のなり手がいなかった。「だから、帰ってきて手伝え」という父親のひとことで、東京の貿易会社に勤めていた現社長が、よび戻されたのである。
昭和45年、舞鶴市が一般家庭のゴミ無料化を実施することになった。これにともない、委託から受託業務になったのを契機に、社長業を引き継いだ。
「この事業をメジャーとまではいわないが、マイナー程度には育てたい」と、社長就任当時は意気込んでいたが、いちばんの問題は、社員の確保だった。3Kというイメージが染みついていた。
だから、まず「世間の見る目を変えなくてはいけない」と、社長は考えた。そのためには「9万6000人の市民一人ひとりに訴えることより、ウチの社員たちの意識を変えさせることから始めようと思った」。発想の転換である。
まず、収集先で「お早うございます」という、大きな声での挨拶を励行したのである。
「なにしろ初めのころは、ゴミ収集車が行ったら、人が隠れてしまう。ほんまに、ゴミもっていくんか、と戸のすき間から様子をうかがっているような時代でした。
それでも、人の顔を見たら大きな声で挨拶しなさい。そして、ありがとうございましたというお礼、それに、何かあればすぐに謝ることです。これを徹底させました」
先方から挨拶してもらえるようになるまで、10年かかったという。いつしか、社員も市民も、ゴミ収集に対する意識が変わっていた。
ここ10年に到っては、環境保護、地球温暖化への関心が高まり、使命感に燃えた若者や、学校からの就職活動を受けるようにまでなった。
「それだけ、しっかりした企業だという認識をもってもらえている」と感じているという。半世紀にわたり、市民生活に密着した事業を続けてきた実績と、信頼の積み重ねがあったからである。
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