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| 「稲荷寿司」や「すずめ焼き」「狐せんべい」を商う店が軒を連ねる参道を歩くと、 中央に朱色も鮮やかな社殿が現われてくる。 全国4万稲荷社の総本社・伏見稲荷大社である。 創建は奈良時代にまでさかのぼる。 「稲荷」の名は、農耕神に由来し、稲作の外敵である雀を焼き鳥にして供する店があるのは、そのためである。 伏見は、かつて伏水と書いたように、伏流水に恵まれ、堀が縦横にめぐる水郷の町だった。 京都を流れるすべての河川が集まり、淀川となって大坂湾に通じていた。だから内陸には珍しい伏見港が造られ、水上交通で賑わった。 その名残りが、三十石船が係留された公園として整備されている。そしてまた、伏見は、兵庫の灘と並ぶ酒どころである。 昔ながらの酒蔵の並ぶ町並みに、麹の香りが漂っていた。そんな疎水べりに坂本龍馬ゆかりの寺田屋が、歴史の生き証人として残っていた。 |
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| 全国四万社の総本社。 千三百年の昔から商売繁盛、 五穀豊穣のご利益あり |
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| 坂本龍馬の「寺田屋」は いまも現役、営業中。 そして秀吉臨終の伏見城 |
京都駅の観光案内所で「ザ・新選組」という小冊子をもらってきた。NHKの大河ドラマの影響もあるのだろうか、いまなお新選組の人気は高い。 その小冊子の「伏見界わい」の頁に、坂本龍馬ゆかりの「寺田屋」があった。 龍馬の恋人、お龍さんが、風呂場で異変に気づいて、全裸で飛び出し知らせたという、慶応二年(一八六六)の有名なエピソードのある宿である。 淀川に注ぐ宇治川派流にかかる蓬莱橋のたもとにあり、いまも、現役の宿として続いているというのも凄い。あの寺田屋騒動が起きたのは、文久二年(一八六二)。ざっと百三十年以上もたっている。 龍馬に急を知らせた、お龍さんが入っていた風呂場も、駆け上がった裏階段も、いまもそのまま残されている。 寺田屋のあたりは、淀川三十石船の発着点だったところである。あの弥次さん喜多さんもここで船を降り、京都に入っている。伏見は、酒造りと淀川水運で商業の町として栄えていたのである。 寺田屋の前から、月桂冠の大きな酒蔵が見える。黄桜酒造の記念館も、すぐそばである。 伏見の酒蔵のほとんどが、京阪電車の線路と新高瀬川の間の狭い一角に集中しているのがわかる。 昔、京阪電車が、京都―大阪間を開通するにさいして、市街地を通る電車を地下鉄にしようと計画していたのだが、京都市内の反対にあい、とうとう地下鉄にできなかったといういきさつがある。 その大きな理由の一つはお酒にあった。 六百年つづいた、伏見の酒造りの命ともいえる“御香水”の水脈が、もしや地下鉄工事で断たれ、枯渇してしまうことを一番恐れたからである。 伏見の名が歴史に必ず登場してくるものに、慶応四年(一八六八)一月の鳥羽伏見の戦いがある。 この年の初めから約一年半にわたって、旧幕府軍と新政府軍の間で繰り広げられた戦いを「戊辰戦争」という。これは、干支が「戊辰」であったところから名づけられたものだ。 この戦争は、鳥羽と伏見とで、ほぼ同時に始まり、ご存じ新選組も幕府軍として参戦している。 そして、豊臣秀吉の伏見城も忘れてはならない。廃城となった伏見城の大手門が、御香宮神社の表門(国重文)だそうである。 「露と落ち露と消えにし我が身かな なにわの事も夢の又夢」というのが秀吉の辞世。亡くなったのは、慶長三年(一五九八)八月。場所は、前年に天守が完成した伏見城であった。 |
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伏見への交通 ●京都駅を起点に目的地によって京阪電鉄本線、JR奈良線、近鉄京都線を利用する●伏見稲荷大社はJR奈良線稲荷駅が一番近いが、京阪本線伏見稲荷駅からでも徒歩5分だ●寺田屋や伏見の酒蔵へは京阪電鉄伏見桃山駅または中書島駅が便利●お問い合わせ先 京都市観光協会 |