| |
||
![]() |
||
![]() |
五島列島は九州本土から100km。東シナ海の黒潮が流れる、ただ中に浮かぶ島嶼からなり、旧藩時代は宇久、中通、西(若松)、奈留、福江を指していった。有人島と無人島を合わせると総数141。その島々が南西から北東の方向に累々と連なり、平戸との境界まで達している。平成16年、島々は合併して新上五島町と五島市の2つの地名だけに整理されてしまい、なんとも味気なくなってしまった。やはり合併以前の中通、若松、奈留、久賀、福江の五主島を指して、五島列島とよばれていたときのほうが歴史的背景もわかりやすく、ロマンがあった。五島市は奈留島、久賀島、福江島が合併して誕生した。福江島は列島の最西端に位置し、東西45km、南北30km、列島の中で面積が一番大きな島であり、政治、経済、文化、観光の中心地である。長崎港からジェットフォイル直行便で80分。飛行機なら、長崎空港から30分。福岡空港から40分の距離だ。そして何より、九州で最後の夕陽が沈むといわれる島は、歴史と感動の連続が待っていた。 |
|
|
| UFOの基地と遭遇か!? 突然出現した緑色の丸い山と 幻想的な黒い海岸 |
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 悠久の歴史ロマンと 隠れキリシタン哀話と… 堂々たる武家屋敷通りに感動 |
五島列島の歴史は古い。人類が住みついたのは約2万年前だという。旧石器時代である。そして、縄文前期から弥生前期にわたるまでの遺跡が次々と発掘されている。 五島列島は、古事記の「国生みの項」に記載され、万葉集にも歌われているという。遣隋使や遣唐使も福江島を最後の寄港地にしていた。五島は、とてつもなく大昔から日本の歴史に登場していたのだ。 そして、仏教の教えを求めて大陸へ旅たった、あの最澄や空海が往還した最終寄港地でもあった。それはまた、大陸の仏教文化が、日本に初めて上陸したことを意味している。 福江島の北端に、柏崎灯台と並んで空海記念碑「辞本涯」(最果ての地を去る)が建っている。空海が、遣唐船(804年)で命を賭して旅立った勇気と偉業を記念して建立されたものだという。 福江島を旅するとき、ぜひ立ち寄りたいのは教会巡りである。数多い教会のほとんどが入り江の奥か辺鄙な場所に、目立たないように質素な造りで建っている。それは、烈しい弾圧と闘ったキリシタンの篤い信仰心の証明でもあった。 堂崎天主堂は、久賀島と福江島のあいだを流れる田ノ浦瀬戸の奥浦湾の、さらに奥まった入り江に建っていた。明治6年(1873)に禁教令が解かれたあとの最初の天主堂で、五島カトリックの総本山として建てられた。 明治41年(1908)、現在の赤レンガ造りの教会として再建された。いまは、隠れキリシタン弾圧の歴史資料館となっているが、それでも巡礼者が絶えないという。奈留島、久賀島、福江島を合わせた五島市だけで20の教会が建っている。 福江島は中国・明国との交易も深かった。天文9年(1540)当時、東シナ海を舞台にしていた“海賊”の王直が、通商を求めて福江島にやってきた。財政的に苦しんでいた領主・宇久氏(のちの五島氏)は歓迎し、領地を与えた。 王直は私貿易(闇貿易)商人であったが、それでも「日本にポルトガル船をひっぱってきたのは、王直であった。この意味で、王直は日本史上の重要人物といっていい」と、司馬遼太郎は『街道をゆく』の中で書いている。王直が乗ったポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来したのはこのときだったのである。 福江島観光の一番のおすすめは武家屋敷通りだろう。武家屋敷通りといえば、鹿児島の知覧や出水、山口・萩や三重・松阪など、全国に数多く残っているが、これだけの規模で、保存状態がいいのは例を見たことがない。驚きだった。 一般公開されているのは「ふるさと館」だけであるが、全長400mの武家屋敷通りの石垣は、溶岩塊を積み上げ、その上に「こぼれ石」といわれる小さな丸石を積み重ねてあった。 これは敵に襲われたとき、投げ石となり、飛び道具に早変わりするのだという。門は、ほとんどが薬医門とよばれる堂々たる門構えである。雲の流れが早くなっていた。夏が逝く。夏の終わりの感動的な旅だった。何度でもきたいと思った。 |
|
![]() |
五島市福江島への交通●船で。長崎港大波止ターミナルからジェットホイルで80分。フェリーで3時間25分●飛行機で。長崎空港から福江空港まで30分。福岡空港から40分●空港から市内まで五島バスリムジンが出ている●お問い合わせ先 |