折々の小さな旅 21 和歌山県高野町
世界遺産高野山
空海(弘法大師)が切り拓いた深山の聖地。山上の宗教都市で、1200年の歴史を辿り、寺院を訪ねる
高野山は、平安時代の弘仁7(816)年、空海によって開創以来、およそ1200年にわたって参詣者があとを絶たない深山の聖地である。
ただし、高野山という山があるわけではない。
和歌山県北東部、紀ノ川の南岸に連なる長峰山系東端の、楊柳山、摩尼山、転軸山など、標高900m級の8つの峰々にかこまれた山上の盆地状一帯を指していう。
その広さは東西約6km、南北約3km。
中心地の標高815m、玄関口の大門付近で848m。
南北をおおう8つの峰々を蓮華にたとえて八葉の峰ともいう。
高野山を一度も訪れたことがなければ、比叡山や書写山のような巨大な寺院だけが立ち並ぶ、深山幽谷の厳粛なる光景を思い起こすだろう。
だが、山内といえども小中高から大学、商店街が軒を連ねる、普通に見かける街であった。
しかし、大きな違いは117の寺院と、約1000人の僧侶たちがいまも修行に励む、日本を代表する仏教聖地であるということだ。
高野山は2004年7月7日、世界遺産に登録された。
文・花都 章 エッセイスト 写真・吉岡 宏 写真家

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1 山内(さんない)の西端に建つ朱色も鮮やかな大門。高野山一山の総門で高さ25.1mある。法橋運長作の金剛力士像を左右に安置した重層の楼門。一番最初につくられたときは鳥居の形をしていたという。
2 山内のほぼ中央に建つ金剛峯寺。日本全国に約4000寺ある高野山真言宗の総本山。開創は弘仁7(816)年。かつて高野山一山の総称であり、伽藍(がらん)全体は青巖(せいがん)寺とよばれていた。
3 女人堂。高野山は開基以来女人禁制だったため、7つの登山口に女人堂が設けられ、ここへ参籠(さんろう)して奥の院を遥拝した。明治5(1872)年に女人禁制がとかれたが、この堂だけが残った。
4 奥の院参道にある無縁供養塔。四方からでも拝めるように、お地蔵さんはピラミッド状に立っている。

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5 根本大塔(こんぽんだいとう)。空海が修験(しゅげん)道場として寛平(かんぴょう)年間(889〜898)に建立した日本最初の多宝塔。現在の塔は昭和12年に再建した鉄筋コンクリート製。
6 伽藍の中央にある金堂。高野山一門の総本堂で、弘仁10(819)年、空海によって創建された。
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祈りの道を歩きながら
1200年の信仰の
歴史を辿る

昨夜は、高野山麓をかすめるように流れる紀ノ川畔に宿をとった。そして日の出とともに出発した。紀ノ川が朝日に染まりだすと川霧が立ちはじめた。風が光って、逝く夏を告げていた。

宿を出てからおよそ90分、つづら折りの山道を登りつめると、朱塗りの巨大な楼門がいきなり目の前に飛びはだかってきた。大門である。高野山一山の総門で、高さは25.1mあるという。

昭和の初期、まだ車の道路が整備される前まで、参詣者の多くは高野古道のひとつである町石道を歩いて登っていた。町石道を登りきった地点に建てられた大門は、すぐ先にある高野山の聖地、壇上伽藍の入口だった。

建立以来、火災で何度も焼失し、現在の大門は宝永2(1705)年の再建である。門前からの眺めが素晴らしく、遠く加太の海、淡路島が煙るように見えた。

町石道は、高野古道とよばれ、開山以来、高野山をめざす参詣者が歩いてきた巡礼の道だ。紀ノ川畔に建つ九度山の慈尊院から壇上伽藍、奥の院御廟を結ぶ、およそ24kmほどの尾根道である。

1町は約109m、沿道の1町ごとに、供養塔型の町石とよばれる道標が立てられたので、町石道とよばれた。町石は、慈尊院から壇上伽藍まで180基、さらに奥の院まで36基あるが、空海が道を拓いたときは木製の卒塔婆だったという。

慈尊院から続く町石道を3kmほど歩いてみた。勾配がきつく、すぐ息が切れる。昔の参詣者たちはひたすら歩くことが、修行のひとつだったのだろう。

慈尊院は、空海の母親が晩年を過ごした寺院として知られる。母親が慈尊院に留まったのは、高野山が女人禁制だったからである。

女人禁制は明治5年まで続いた。それでも空海を崇拝した女性参詣者たちは、結界とよばれる境界線の外の参詣道を巡りながら、壇上伽藍や奥の院に向かって、遥拝したという。

女性参詣者の歩いた道を、女人道といった。この道もまた峻険な尾根道が続く古道だった。強い信仰心を抱いてやってくる彼女たちは、入山できずとも7つの結界入口に建つ女人堂に参籠し、拝むことで達成感を得ていたのであろう。

木漏れ日の足元で、水引が深紅の花をつけて光っていた。1200年の信仰の歴史を辿りながら、深山に続く祈りの道を歩いていると、活力をもらったような気がしてきた。


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7 苅萱(かるかや)堂。苅萱道心と石童丸が父子を名乗らぬまま修行を続けた伝説のお堂。堂内に物語を絵にした多くの額が掛けられている。
8 御影堂(みえいどう)。秘仏の弘法大師像(肖像画)をはじめ空海十大弟子らの肖像を安置し、ゆるやかな勾配の屋根は山内随一の優雅さをみせる。嘉永元(1848)年に再建された。
9 源頼朝の菩提を弔うため、妻の政子が建立した(1211年)金剛三昧院。山内の中心から離れていたため、たび重なる火災から免れ、いまも多くの文化財や国宝を残す宿坊として名高い。
10 徳川家霊台。三代将軍家光が寛永元(1624)年から20年かけて造営した。江戸時代の代表的な霊廟建築で国の重文。家康と秀忠を祀る。
11 老杉におおわれた奥の院参道。一の橋から御廟(ごびょう)まで続く約2kmの石畳は、昼なお暗く霊気漂う。高野山でもっとも神聖な場所である。
12 空海を高野山に導いたといわれる高野明神(狩場明神)を祀る御社。空海が山内で真っ先に建てた御社だった。大永2(1522)年に再建された。


恩讐を超えて林立する
歴史を刻んだ人々の供養塔に
巨大な宇宙を見た

空海は宝亀5(774)年、現香川県である讃岐国に生まれ、31歳のとき中国・唐に渡り密教を極める。帰国した空海は、弘仁7(816)年、43歳のとき、嵯峨天皇に高野山を賜り、真言密教修行の道場を開いたのである。

弘法大師という諡号(生前の行ないを讚え、死後に送られる称号)は、空海が入定(入滅)して86年後に、醍醐天皇より与えられたものである。

空海は全国に多くの奇跡伝説を残している。いわく杖を突き刺したら温泉が湧いた。泉が湧き出たなど、枚挙にいとまがない。伝説については斎藤昭俊編著『弘法大師伝説集』13巻(国書刊行会)にくわしく、2668話が収録されている。空海が、それだけ平安時代初期に活躍した巨人であることは言を俟たない。

また「弘法筆を選ばず」とか「弘法にも筆の誤り」といった俗諺も伝説化されるほど、嵯峨天皇、橘逸勢とともに平安の三筆と称されて、書でも高名だった。

早朝の高野山は、まだ人影も少ない。

奥の院と並んで神聖な場所が、壇上伽藍である。この場所こそが真言密教の教義を、根本大塔、金堂、西塔、不動堂などの建造物や仏像によって顕す、という独特の伽藍形式をもち、日本で最初の本格的な密教伽藍なのである。

まず、真言密教のシンボルといわれる、朝日を浴びて鮮やかな朱色に輝く根本大塔のもとに立って、空海とはいかなる人物だったのかを考えてみる。

空海の真影を祀る御影堂は、山内でもっとも美しい佇まいだと聞いた。金堂は空海構想の講堂の跡地に建つ、高野山一山の総本堂である。

根本大塔をはさんで東西に対をなす東塔、西塔が老杉にかこまれるように建っている。威風堂々の佇まいに感じいっていたが、空海は西塔の完成を見ないまま入定(入滅)。

伽藍の造営を引き継いだのは空海の甥真然で、50年の歳月をついやして仁和2(886)年、ようやく西塔を完成させた。現在の西塔は5度の火災に遭い、天保5(1834)年の再建と説明にあった。

こうして空海の遺跡をひとつずつ訪ねて見ると、ほとんどが再建とある。高野山の歴史も、天災や火災をくり返しながら、廃絶の危機に直面していた時代があったのである。

最後に奥の院に参詣した。一の橋から空海が祀られる御廟まで2kmの石畳が続く。参道の両脇に無数の墓碑や供養塔が林立。奥の院では現世で争った敵、味方が墓碑を並べているのだ。関ヶ原で雌雄を決した徳川家と石田三成。高野山を攻めようとした豊臣秀吉の墓まである。

いま高野山には、こうして宗派や貴賤を問わず、現世の恩讐を超えて、すべてが並んでいるのだ。かつては女人の立ち入りを禁じた山上も、大きく門戸を開き、老若男女のすべてを飲み込んでしまう、巨大な宇宙を見たような気がした。

それにしても、伽藍と総本山金剛峯寺のもとに117寺、うち53の宿坊寺院を中心に、1000戸の商家と4300人の高野町人口の7割が山上に住み、町の機関も山上に置かれた、全国でもまれに見る宗教都市には、ただ驚くだけであった。


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13 西塔(さいとう)。根本大塔をはさんで東西に建つ西塔と東塔(とうとう)。これまで何度も消失し、現在の建物は天保5(1834)年に5度目の再建。内部は非公開。国の重文。
14 奥の院参道に建つ上杉謙信廟(国史跡)。参道の両側に同じ時代に戦った敵と味方が祀られる。謙信と武田信玄、織田信長と明智光秀など数十万基を超える墓碑や供養塔が建っていた。
15 御廟(ごびょう)橋から奥の院を拝む。もちろん奥の院は弘法大師空海の御廟が祀られている。高野山でもっとも神聖とされる場である。
16 南海電気鉄道・極楽橋駅から高野山駅まで5分、標高差300mを30度の急勾配で昇降するケーブルカー。1日平均の乗客数は1884人だという。
17 近畿駅百選に選ばれた、昭和3(1928)年築の高野山駅。ケーブルカーが到着するたびに待機する南海りんかんバスが山内を走る。
18 高野古道に立つ町石(ちょうせき)。紀ノ川のほとりの慈尊院から壇上伽藍まで、空海が道しるべとして木製の卒塔婆を立てたのが最初だった。
19 高野山麓を流れる紀ノ川に朝霧が立ちこめていた。三重と奈良の県境にあって年間降雨量3500〜5000mmという大台ケ原を水源とする吉野川は、和歌山に入ると紀ノ川と名を変える。

地図 高野山への交通●大阪・南海電鉄なんば駅から南海高野線で終点・極楽橋駅下車特急で80分。極楽橋駅から接続の高野山ケーブルで約5分、高野山駅下車●高野山駅からは南海りんかん路線バスで山内を回る。高野山1日フリー乗車券800円が便利●お問い合わせ先tel高野町役場観光推進室0736・56・3000


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