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勘違いされてきた審判の役割も原因
海外でも審判と選手のトラブルは後を絶たないが、そのほとんどは選手から審判への暴言、あるいは侮辱的行為である。
最近ではローマの司令塔フランチェスコ・トッティの審判への暴言が問題になった。
4月に行なわれたウディネーゼ戦、トッティはシュートを打とうとした際、主審を務めていたリッツォーリ氏が邪魔になったとして、つい罵ってしまったのだ。
「自分が間違っていた。審判としても人間としてもリッツォーリ主審に対するリスペクトを欠いてしまった」
トッティはすぐに謝罪したが、規律委員会は1万ユーロ(約160万円)の罰金を命じた。暴言のツケは高くついてしまったというわけだ。
日本代表FWの大久保嘉人(ヴィッセル神戸)もスペインリーグに所属していた頃、暴言が原因で出場停止処分を受けたことがある。
3年前の12月のことだ。当時マジョルカに所属していた大久保はオサスナ戦で審判に向かって「バカヤロウ」と口走ってしまったのだ。
大久保はこれを否定したが、リーグは彼に1試合の出場停止処分を命じた。どちらの言い分が正しいのか真相はヤブの中だが、決まった以上は従うしかない。見方をかえれば、出場停止が1試合ですんでよかったと言えるかもしれない。
日本の場合、審判が選手を叱っている場面が目立つ。これは長い間、スポーツが「教育の一環」と位置付けられていたからではないだろうか。
スポーツの語源はラテン語の「deportare」だと言われている。「portare」とは運ぶこと。すなわち「仕事」である。
その否定形(de)なのだから「仕事をしない」。つまり「遊び」や「解放」という意味。
ところがスポーツを欧米から“輸入”した日本は富国強兵の時代だったこともあり、スポーツを「体育」と訳してしまった。「体育」は直訳すれば「Physical Education」であり、スポーツとは似て非なるものである。
この時のボタンの掛け違いが今のスポーツの現場においては、悪影響を及ぼしている。それが証拠に「選手を正しく教育しなければならない」という審判が未だにこの国においては少なくない。
もちろん、選手の側にも問題はある。審判という、いわば黒衣の存在がなければゲームは成立しないのだが、それに対するリスペクトの精神が欠けているように見受けられることがある。
選手も審判も、ともにゲームを成功させるためのステークホルダーであるとの認識を共有することが、トラブル減少の第一歩になると考える。
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