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    メルセデス・ベンツ E500と走り続けるために

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メルセデス・ベンツ W124への飽くなき好奇心と、ヤングクラシックと走り続けるオーナーたちの夢を共に叶える喜び。

撮影チームが三重県松阪市を訪れたこの日は、朝から冷たい雨が音もなく降り続けていた。凍てつく寒さで吐く息は白く、指先はかじかむ。しかし、「Das Auto Ganz」に一歩足を踏み入れると、その壮観な光景に寒さを忘れた。

少し薄暗く雑然としたガレージにずらりと並ぶのは、メルセデス・ベンツのヤングクラシックたち。色褪せなど微塵も感じさせず、それでいて美しい時間の重なりを体現したような気高い存在感がある。到着早々、興奮気味にガレージを見回る私たちを、代表の中村元哉さんと従業員の初瀬友健さんがにこやかに見守っている。全世界でわずか502台のみ生産された、190E 2.5-16 エボリューションⅡもある。時空を超えて未来のタイムマシン博物館に迷い込んでしまったかのような、不思議な感覚にとらわれた。

メルセデス・ベンツ W124のプロショップ「Das Auto Ganz」のガレージは、世界中のファンの憧れの場所だ。今回の撮影オファーも、中村さんのInstagramアカウント (@dasautoganz) がきっかけだった。中村さんは翻訳アプリを駆使して世界中のファンとの交流を楽しんでおり、中村さんに一目会うために海外からこのガレージを訪れるファンもいるという。

衝撃的な出会い 自動車産業は変革期を迎え、優れた性能を備えた車は次々と生まれるが、時代を超えて人々を熱狂させる「名車」は数少ない。メルセデス・ベンツ W124シリーズのなかでも、1990年秋から1995年にかけて、10,479台のみ生産された500E/E500は、発売当時から圧倒的な性能で絶賛され、発売から30年が過ぎた現在もその評価は揺るがない。むしろ若い世代からも注目を集め、今、熱狂はさらに熱を帯びている。

国産車のチューニングショップで働いていた若き日の中村さんは、何気なく見ていた自動車雑誌の記事に釘付けになった。その時の興奮をまるで昨日のことのように語る。

「W124のなかでも、別格な500Eがパリ・モーターショーで発表されたんです。ほかにはないグラマラスなボディに、330馬力の5.0リットル V型8気筒DOHCエンジンが積まれている。これはすごい車だ!と衝撃を受けました」。

当時の新車販売時の価格は1,550万円。買えるわけがないと諦めたが、31歳の時に中古車店で1台目の500と出会う。「それがすべてのはじまりなんです。そこから、もうどっぷり。このエンジン、このパワー、とにかく感動することばかりで」。購入からわずか半年、トラブルで1台目のE500を廃車にしてしまったが、もう迷いはなかった。「翌月には、すぐに今の車を買ったんですよ。その日から20年以上、この車に乗り続けています」。それが、現在の愛車である94年式 E500だ。

最善か無か、父との約束 「圧倒的に違うのが、やはり車の剛性感。アクセルを踏んだ時のパワーは独特のものがあって。どう表現したらいいでしょう、薄っぺらさが一切ないんです。すごく質素であるとも言えるんですけど、例えばスイッチの絶妙な位置だったり、その機能性の高さはやはりドイツ車だな、と」。

500E/E500は開発と製造の一部を、当時経営難に陥っていたポルシェに依頼した希少モデルとしても知られている。「『最善か無か』という言葉が、メルセデス・ベンツにはあって。その言葉を体現する最後のモデルだと感じます。本当にオーバークオリティなんですよ、僕らから言わすと。鉄板の強度ひとつとっても、ドアの立て付けにしても、本当にすごい」。

2011年に「Das Auto Ganz」を開業したのは、中村さんの父親が亡くなってすぐのことだった。実家は林業を営み、幼い頃から祖父や父が働く姿を間近で見てきた。

「林業には重機やトラックが欠かせませんし、僕の車好きは父の影響が大きい。でも、父は僕が車屋をやることに猛反対していたんです。『趣味が実益になるわけがない、車は趣味にしておけよ』って。だから父が他界したあと、『親父、絶対に成功するから車屋やせてくれ』って仏壇に手を合わせて。それでここを始めたんです」。

経験が修理の精度やスピードを上げる 500Eへの初期衝動がビジネスに変わり、創業から12年。多くの顧客から信頼される「Das Auto Ganz」の高い技術力やトラブルへの対応力は、自身の愛車を通じて培われた。「故障箇所を診断するテスターはあるんですけど、100%正解かというと、そうではない。自分の車の故障の時はこうだったという経験が、修理の精度やスピードを上げてくれるんです」。

専門店としての課題は、生産終了から30年が過ぎて部品供給がなくなりつつあることだ。「今一番難しいのは、保安部品、例えばヘッドライト。でも、僕らも意地で探すんですよ、世界中を」。部品取り用の車はなんと8台。中村さんは供給部品の終了を知ると、在庫をすべて買い取るようにしているという。キャッシュフローには悩まされるが、どんな時も、顧客の愛車が走る姿が頭に浮かぶ。

「うちに来てくれるお客さんは、関東から西日本まで全国にいます。今、日本を走っている500のうち、48台が僕らの顧客の愛車なんです。自分も乗っているんで、自分のためにも部品は使いますしね。『この部品買うとかな、あかんやろ』って。僕の悪い癖です」

時間をかけてエンジン内部部品を組み替え、無事にエンジンがかかった時は、いまだに「興奮と安堵感で自然と鼻血が出ることもある」と笑い、どんな苦労話もとにかく楽しそうに話す。「仕事が好きですし、もう今となっては、後悔していることも何もありません。この仕事をやってよかったということだけ。趣味を仕事にすること。好きを仕事にすることも」。

せんでええ 「Das Auto Ganz」と顧客の関係性はとてもユニークで、従業員の初瀬さんも、実は元顧客だ。幼い頃からとにかくメルセデスフリークで、中村さんと知り合ったのはなんと高校生の頃。大学生の頃はアルバイトとして中村さんのもとで働き、自動車専門学校を卒業後にはメルセデス・ベンツのディーラーに勤務していたが、中村さんの右腕として「Das Auto Ganz」に迎えられた。中村さんはおどけて、初瀬さんを「うちの社長」と呼ぶ。ふたりは信頼で結ばれた師弟でありながら、同じ情熱を持った大親友にも見える。

技術力はもちろん、中村さんの情熱と実直な人柄に惹かれ、人が人を呼ぶ。連休になれば顧客が集まり、時には総勢15台の500でドライブに出掛けることもあるという。

顧客の求めに応じて、ただ部品を交換すればいいわけではない。車の状態と部品の耐用年数を見極め、顧客にできるだけ金銭的な負担をかけさせず、適切な整備と修理を提案する。「雑誌やWEBの情報から『雑誌等で、ここが絶対故障するから、ここの部品を交換しなければって書いてあったけど、僕の車は交換した方がいいですか?』ってお客さんが来たら、最初は物腰柔らかく『今は、別にする必要はないんじゃないですか?』って対応するんですけど、慣れてくれば『前も言うたやん。今はせんでええって』って僕は言うんですよ」。

顧客たちは「こんな応対をする店は初めてだ」と面白がり、「Das Auto Ganz」を「ナカムラ道場」と呼ぶようになった。顧客にとっては、ただの整備工場ではなく、一生付き合う大切な車との向き合い方を学び、鍛える場なのだ。

漆黒のファイター、決めては”顔つき” さて、ここまで記事を読んだ人は、そろそろ、こう思うはずだ――ふそうライフの記事で、なぜ、メルセデス ベンツの紹介を?と。三菱ふそうがダイムラートラック グループの一員であることはもちろんだが、実はその答えは「Das Auto Ganz」の象徴的な存在である積載車にある。

「遠方にも行くので、余裕のあるエンジンと信頼感が欲しくて、ふそう ファイターを選んだんです。林業を手伝っていた時も初代ファイターに乗っていて、トラックは昔からふそうブランドが好き。やっぱりデザイン、トラックの”顔つき”に一目惚れだったんですよ。6気筒エンジンを積んでいるのは、今となってはふそうだけ。パワーもあるし何より安心して乗れます」

この漆黒のふそう ファイター、語彙力を失うほど、もう、とにかく、かっこいい。「誰もやっていないようなスタイルにしたい」と、ヨーロッパを走るトラックをイメージしてカスタムされ、フットワーク軽く日本全国どこでも駆け付ける。ずっと乗り続けてきた愛車が原因不明で直らない不安を抱える人、信頼してくれる人の力になることが、中村さんの原動力だ。

「僕も以前、何かあった時に、すぐに駆け付けてくれる人がいなかった。直ぐに対応できる店。そんな風になれたらいいなって。痒い所に手が届く、安心して長距離もいける。何かあっても、レッカーでいけるっていう、そういう車屋になりたい。いろんな方から助言をもらいながら、お客さんが大切にしてる車を、意地でも直して届けたいんです」

「Das Auto Ganz」は、ドイツ語で“最高の一台”を意味する。最高の一台を届けるという、中村さんの決意の表れだ。「別に使命感を感じてるわけではないんですけどね。本当にこの車が好きで、このモデルが好きで、メルセデスが好きでやっている。ただ、それだけのことなんです。本当にシンプルなんです」■